禅寺小僧

日々の記です。

大徳寺の概要

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大徳寺京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派大本山です。

枯淡な松林に囲まれて山門・仏殿・法堂・方丈・庫裡・僧堂・浴室・経蔵・鐘楼などの伽藍があり、2つの別院と22の塔頭を残し、江戸時代の禅寺の雰囲気を今に伝えています。

 

鎌倉時代後期の正和4年(1315年)、大燈国師(宗峰妙超)は紫野の地に庵を結び「大徳」の扁を掲げました。やがて南北朝時代北朝花園上皇大徳寺を御祈願所とし、南朝後醍醐天皇は勅願道場としました。皇室の寺として大徳寺は五山制度の寺院よりも格上とされましたが、やがて大徳寺は幕府の五山制度からはずれ独自の道を歩みます。

 

室町時代には応仁の乱による兵火で灰燼に帰しますが、今も一休さんの名で親しまれる一休禅師によって再興されます。一休禅師に参禅した堺の豪商・尾和宗麟は方丈・仏殿を再建し、同じく連歌師の柴屋軒宗長は山門を再建しました。また様々な文化人が集い、一休禅師の禅は日本文化に大きな影響を与えます。

 

佗茶の祖・村田珠光は一休禅師に、武野紹鷗や千利休は大林宗套に参禅し、「茶禅一味」と称されるほど大徳寺の禅は茶道に大きな影響を与えました。

 

戦国時代には大徳寺僧は戦国武将に禅を説きます。そして戦国武将によって創建された塔頭大徳寺には今も沢山残されています。また豊臣秀吉織田信長の葬儀を大徳寺で営みました。千利休が寄進した山門の二階に利休の木像が置かれたことに秀吉が怒り、千利休切腹させられた話も有名です。

 

明治維新後の廃仏毀釈では多くの塔頭が失われましたが、清冽な空気が流れる境内では、今も禅の修行が続けられています。