禅寺小僧

日々の記です。

松の下露






曇り空のもと、後醍醐天皇の碑があり


元弘元年笠置陥ルヤ 天皇ハ藤房季房ヲ随ヱ 迂路難行和束ヲ経テ
金剛山ニ向セラル 三日ノ後九月三十日漸ク此地ニ潜幸アラセラレ後
疲労ノ極 終ニ有王ノ芝ノ巌上ニ臥シ給フ
松露御衣ニ滴ル即チ碑面ノ和歌ヲ詠セラレル


1331年の元弘の乱鎌倉幕府統幕をもくろむ後醍醐天皇笠置山で挙兵したものの城を落とされ、藤房と季房をしたがえて、回り道し困難な行軍で和束から楠木正成金剛山千早城へ向かわれた。三日後、九月三十日にようやくこの地(山城多賀の有王)辿りつかれた。疲労困憊、とうとう有王の芝の岩の上に倒れられた。松の露が衣に滴ったところ、和歌を詠まれました。




さして行く 笠置の山を 出でしより 天が下には 隠れ家もなし 後醍醐天皇


いかにせん たのむ陰とて 立ちよれば なお袖ぬらす 松の下露 万里小路藤房












古い石碑だけを見たら、ここで疲れ果てて休まれた後、金剛山千早城楠木正成のところに向かわれたのかなと思っていたら、もう少し進むと分かれ道の道端にわりと新しい看板があって、鎌倉幕府に倒幕の戦いを挑んだ後醍醐天皇はあっという間に戦いに負けて、笠置から和束を通って敗走して逃げてきたところ、ここと有王で幕府の追手に捕まりました。というようなことが書いてあった。なんと追手に捕まった場所なのかよ〜。こっちのほうが事実に近いのかもしれませんな。が、石碑のほうがロマンがありましたような。捕えられた後醍醐天皇は翌元弘2年隠岐の島に流される。元弘3年隠岐の島から逃れた後醍醐天皇伯耆で挙兵し、足利尊氏が京都の六波羅探題新田義貞が鎌倉を攻めて北条氏は滅び、鎌倉幕府は滅亡する。そして1334年建武元年、建武の新制がはじまる。大徳寺南朝後醍醐天皇から本朝無双の禅苑の御宸翰をいただいて勅願寺となった。(北朝花園天皇は1324年に勅願寺に定めていたのだったが)南北朝時代室町時代と歴史は流れてゆき、建武の新制は失敗し後醍醐は失脚する。北朝の時代になって大徳寺は廃れていってしまう。大徳寺開山の大燈国師後醍醐天皇に与した赤松円心の甥だったから、いろんなことが想像できるな。またいずれいろいろ調べてみることにする。後醍醐天皇は吉野で1339年に亡くなる。






こんなことを話すはずじゃなかったのに、歴史の話になってしまった。
このあいだ発掘をされてる研究者の方と話していて、松の樹の話になった。その中で松の樹が増えるんは渡来人が来てからやよ〜とおっしゃってた。京都周辺の山ももちろんそうだけど、戦後に石油ガスを多く使うようになるまで、人が住んでいる近くの山は松林が多かった。人々が薪炭に利用していて、昔は松茸が沢山採れて採れて、という時代だ。ところが考古学的にみるともともとの日本にはむしろ松林は少なかったのだと。渡来人が砂鉄の採れる中国地方などにやってくると、タタラ製鉄を行なうために大量の炭を焼く。製鉄のための炭の量というのは尋常な量ではないらしく、山がハゲになるほどなのだと。山の樹が刈り尽くされてやせ地になって、生えてくるのが松なんだそうで、最近は松の樹が減ってドングリの樹が増えてきた、と言ってるのはどちらかというと、原始の植生にもどりつつあるのだそうだ。人間の営みとともにドングリの木が減って、松の木が増えた。そして人間の営みの形がかわって、こんどは松の木が減って、ドングリの木がまた増えてきて、持ち直した。長い時間の流れの中からみるとそんなことなんだと。






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