禅寺小僧

日々の記です。

尋ねるな。

 化粧をしてもらって花に囲まれて、見送ったり、お別れするとき、フッと何かが偲ばれて不意に涙がでてきたりするものだけど、しんみりした気持ちでいつかは自分も入っていくだろう釜戸の中に送り出し、ぞろぞろと部屋を後にする。それから一時間、ロビーか喫茶店で待っていると、まだ熱々の白くてガサガサした焼骨となって、もう一度眼の前に現れた。棺桶や一緒に入れた筈の花はまったく無くなっていて残ったものは御骨と、入れ歯などの僅かな生の痕跡だけであって、乾燥しきってガサガサする感触のあるまだ熱い御骨は全く水分を失っていて、故人という生命が何十年かかかって造り上げたはずであるにもかかわらずどこか天然自然にできた鉱物のように見えた。もう生きていなくて動くことが出来なくても肉や水分があるうちは幾ばくかの情念があって、遣り残したことは無かったのだろうか、思い残したこと、この世への未練は、などと感情移入することもできたのに、釜戸からでてこられた姿は、どの人もこの人も同じようにあっけらかんとして、内臓、情念、名前などといった生前の持ち物がどこかに旅立ってしまって、はかない。けれど、どうしてだろうか、一時間前にはこぼれ落ちそうだった涙が、今度はまったく出てこない。