禅寺小僧

日々の記です。

語れない部分。



 一人の分別のある男が、おもいがけなく死を選ぶ。それまで周りにいて親しくしていた人や、どちらかと言えば疎遠にしていた人々も、エッ、と驚き、なんでこんなことに、、、と口々につぶやいたり、ささやいたりして互いに現実を納得しようとして、何があったんやろ、本当の原因は何だったのかさぐろうとして男の近くて暮らしていた人にあれこれ尋ねる。それでも本当に心から納得できる’真相’なるものにはなかなか出会えないから、きっと何か都合が悪いことがあって、隠された秘密があるんではないか、とか想像して、今度はもっともらしいストーリーを推理したり創作したりしはじめる。理解しようにも理解できない現実を目の前に見せられて、残された人々は、男にどんな悩み事があったのだろう、苦しめていたのだろう、と同情の涙が眼に溢れる。動機は何だったのだ。。今となればおもいつくことが幾つもあるが、それ以外の残された者の中にもありながら決して語られないことがある。人はオギャアと生まれてからウーンと死ぬまでなるべく長くよりよく生きたい、死にたくない。生きたい。というのがあたり前で共通の価値観だと信じて疑えないようなところがあるけれど、実は、生きたいという欲求と同時に死にたいという欲求も、誰もの心のどこか在りはしないか。今まで生きてきて自分の死をかんがえたことがない、という人はいない。誰もがきっと一度や二度は、自分の中にある、死に向かう衝動があることを発見したことがあるはずだ。死に至るもっともらしい動機が在るのと同時に、そこには静機といもいうべき普段は意識されないものが横たわっていなかっただろうか。生きたい、という思いが弱まったとき、その背後にあるものが顔をもたげて起き上がるのではないだろうか。そして自分の中の死に魅せられることでかえって生が浄化され、輝き、力強く、生きてゆくことができる。自己の生を再生し更新することができる。あなたも生還したとき、ただ生きていた、というだけで充足し多幸感につつまれたことがなかっただろうか。