禅寺小僧

日々の記です。

一撃、所知を亡ず

hekigyokuan2005-06-15

 いまはむかし。香厳という名の僧がいた。修行熱心で学問もされたひとだったが、ある日師匠から、「父母未生以前のヒトコトを言ってみよ。」と問われた。父も母もまだ生まれていないその先の一句をこの場で出せ。ということだけど、師匠のこの一句にまんまと引っかかってしまった。今まで散々修行してきたけれどこんなことに答えられないとは、と、「こんなもんは画にかいた餅や、」それまでの勉強道具を焼き捨てて台所にはいったりしたが、最後にはとうとう山奥の寺に行ってしまった。道を掃いていると、瓦のかけらが飛んでいって竹に当たってしまった。「カーン」
と傍目にはこれだけの話なんだが香厳の心の中では自分の一生が清算されたような、やっと追いつけたような、ひろびろとしたんだろう。その余韻は全身的で全霊的であったにちがいない。瞬間、生まれてきたことをしみじみ味わった。











 とそんな故事のことをひいて、ミュージシャン氏に「今日一番良かったのは最後の一音だと思う。」「心の底に響く音なら、たった一音聞ければ、それでいい。」と言った。
普通の楽器は音がでるように、人間が計算して、作られたもので、その音階は五線譜の上に書ける。バッハ以来の伝統なんだろう。ところが打楽器奏者であるミュージシャン氏が叩いているのは四国でとれる石で、もともとカンカン石というらしいけど、叩くと音がする。楽器の形をしていないから聴いている人にしたら、ありえない音、に聞こえる。想像できない。けれど現実そのもの、生のまま、ありのままのナチュラルな音。楽器の音がケミカルな、水道水みたいなヤツだとしたら、コイツは不純物をいっぱい含みながら清冽な井戸水や涌き水の類いになるんではないかな。











 いま、雨が降っている。こういう日は心が落ち着く。
耳を澄ませば、川のせせらぎ、鳥の声、風の音、虫の音がなんかがあふれかえり、気がつかなかった音がなだれこんでくる。忘れた頃ミュージシャン氏が「聴衆に、曲を感じさせてはいけない。」といった。