禅寺小僧

日々の記です。

 なんだかんだで100人ほどのかかわる消防訓練の行事があって、裏方をずっとやっていたのが、昨日、おわった。寺側の計画やらなんやらかんやら、なんでもかんでもの責任者であったので、始まってしまえば一時間にみたないぐらいのものなんだけど、以外とシンドイものだった。終わってしまえば緊張感がフワフワ溶けて、どこかへいってしまったので、夕方から蕎麦の実を挽きにいってきた。
    
 知り合いからもらったという、プラスチックのオリに入った蕎麦を食べたことがあった。ご丁寧に、こうして茹でて食べるべし!!って感じの茹で方を書いた紙まで入っていた。ダシもついていた。見るからに旨そうだったが、口に入れたとたん、
「これはウマイ!」と、思わず、言葉が口をついて出てしまった。新蕎麦だった。そのことがその人の耳に入って、「いっぺん蕎麦打ちにきたら?」と誘われて行ったのが最初やったなあ。その人はプロの蕎麦屋さんでもなんでもなくて、陶器屋さんで、蕎麦は趣味なんや。仕事で土を練って、趣味で蕎麦粉を練るという、素人目には仕事も趣味も似たような、いいたいようなことをしている方で、子供のころ、お父さんがよく蕎麦を打ってくれてみんなで食べたのが楽しかったのが原点、という人である。その師匠のところに何度か通ううちに、知らずしらずのうちに自分も蕎麦打ちになっていた、というのが真実なのだけど、禅宗の坊さんというのはたいがい、蕎麦とかウドンとかの麺類が大好きである。それはなんでか、というと、修行中は、お粥、麦飯、雑炊の三拍子で、毎日毎日同じことの繰り返しなんだけど、たまの昼食、うどん、そば、そうめん、などの麺類になることがある。だからお寺でウドン、というとみんな目を輝かせる御馳走で、普段のご飯では音を立てて食べてはいけないのだけど、このときばかりは音を立てて食べてもよくて、しかもチュるチュるというようなやさしいのではなくて、ズッ、ズッという勇ましい音がよいとされている。いつもはシンとして何の物音もしない、沈黙の食堂であるけれど、このときばかりはあっちでズルズル、こっちでツルツル、賑やかなお祭り騒ぎになる。食べる量も半端ではなくて、日頃の修行の成果を見せ付けるべく(座禅して複式呼吸をし続けていると、胃袋が強くなる。)自己の限界まで食べ続ける。ウドンや蕎麦は蒸籠にのったのをウドンやさんから持ってきてもらうのだけど、5玉ぐらいでは、まだまだ、食べた気がしない。その当時は後輩に、「君はウドンを噛んで食べているそうだネ。お寺では噛んで食べたらアカン、噛みたかったら寺を出てからにしてくれ。一本づつでもいいから、常にウドンが口の中に入っていくようにしろ。口でウドンを吸ってる最中に、箸は次の麺を掴んでないとイカン!自分が掃除機になったつもりでやってみろ!!」などと指導していた。
               
今から考えたらアホみたいなこっちゃ。