禅寺小僧

日々の記です。

多賀新田のいま












山新田(多賀新田)
多賀村の東端山中に開発された新田村で多賀新田ともいう。東北をうしとら山443m、西北を高雄山443m、西南を大焼山429mに挟まれた谷間に人家と田畑があった。伝えによると、元禄年間(1688〜1704)に開発され、昭和20年代に廃村となったという。今も屋敷跡や井戸・石仏などが残る。天保郷帳には「多賀村枝郷奥山新田」として高8・9石余が記される。また旧高旧領取調帳には「奥山新田 元御料」として、同石高が記され、本村の多賀村と同様禁裏御料であった。明治10年代の「京都府地誌」に「新田九反六畝零六歩」とあるから、これが奥山新田の田の面積とみられる。(京都府の地名 日本歴史地名体系26)

















新田といってもいまはもう無くなってしまって、もとの林になった。旧田というほうがいいかもしれない原野がひろがってる。ご先祖さんはこんな原野を開拓していったのだなというのと、人が住まなくなったら日本の自然はこんなふうに人の痕跡を呑み込んでゆくんだ。愛宕山のケーブルカー駅やホテルも戦争中に廃止になったのだから年代は同じようなものだけど、多賀新田のほうが呑み込まれ方が圧倒的やな。大きいコンクリートの建造物が無いせいだと思うけど、コンクリートも鉄筋からボロボロになってきてるから、そのうち崩壊してしまえばここと大差なさそうやな。人が去って廃墟になっても、廃墟が廃墟でいれるのもまたたいした時間があるわけでもない。人為が自然を破壊するのが問題視されてるご時世だけど、ここでは自然の圧倒的な力でもとの原野に押し戻されてしまった。ホンの何十年かで。


鉄は国家なりといった時代があったし、石器文明、青銅器文明、というカテゴリーでわけたとしたら、今も鉄器文明というのでしょうか。昔の鉄は砂鉄から、今の鉄は鉄鉱石からとるのでしょうけど、どちらも等しく酸化して錆びて、ボロボロになってきますね。組成的には、砂鉄も鉄鉱石もどちらも酸化鉄なんだけど、人が熱したり叩いたりして金属鉄に加工しても、また時間がたつと錆びてもとの酸化鉄に戻ってしまう。自然界では鉄は酸化鉄の状態が安定しているのだと言ってしまえばそれまでだけど、現代の華やかな文明も、流れに砂がさらわれてゆくように、素材の土台からもとに押し戻されるようで。人がこの世にありつづけるには更新しつづけてゆくしかないのかも。







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