禅寺小僧

日々の記です。

最終意見陳述全文公開から













原文はこちら→http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140718-00037501/






そのつづきです→http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140718-00037503/









「自分は夢なんか持っていない!まとも夢すら持てなかったんだ!」という彼はマンガ家がインタビューで「夢は必ず叶う」と発言しているのを見つけた時に猛烈に腹が立ったのです。逮捕後、検事さんとの会話の中で、


「自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功が羨ましかったのではないのです。この世の大多数である「夢を持って努力ができた普通の人たち」が羨ましかったです。」ということに気がついたのです。「自分は負け組ですらないという事実を突きつけられたような気がしたのです。キーワードはバスケと上智大学でした。この2つは自分の中で無意識裡に自分ができなかった努力の象徴となっていました。」


長々と引用させていただいたのは最終意見陳述をネットで見つけて興味深く読ませていただいたうちの一部です。この中にはなかなか現代的の根本的な問題を含んでいるとおもいます。


現在の日本の普通の人たちの多くも、正体不明の生きづらさを抱えているのではないかと思います。その原因の多くの人たちが無意識裡に抱える対人恐怖と対社会恐怖に由来すると思います。


「生きる力」とは何か?自分はここまで墜ちた人間ですから、それが何かがはっきりと分かります。それは根源的な「安心」です。安心があれば人間は意志を持てます。自分の意志があれば人間は前向きになれます。「安心」が欠如し、強い対人恐怖と対社会恐怖を抱き、肯定的な自己物語を持てない人間が「生きる力」がない人間です。


日本中の前途ある少年たちが「安心」を源泉に「生きる力」を持って、自分の意志を持って、対人恐怖と対社会恐怖に囚われることなく、前向きに生きてくれることを願っておわりにしたいと思います。」


原本はA4レポート用紙44枚におよぶという長い文章を一気に読んでしまったのは、考えていることと似ているからなんだろう。10月に一般の人を相手に小さい授業をするんだけど、そんなことも頭の片隅にあってついつい最後までPCの画面で読んでしまった。いつもは光る液晶の画面がイヤでそんなことはしないのだけれど。現代の「生きる力」が「安心」に担保されているものであると見抜いているところが凄い。彼の言う安心は安全安心社会というような安心ではなく、「人間が生きる力の源」というようなものなのだ。安心は安心立命というように宗教の世界でも使われててきた言葉で、字引をひいてみるとこんなふうに書いてある。あんしんりつめい【安心立命】強い信念・信仰によって心の平安を得て、何事にも心を動揺させないこと。◇仏教では「あんじんりゅうめい・あんじんりゅうみょう」などと言う。 もともと仏教の世界でも扱っていた安心だけど、実際の現代の日本の中で身をとおして感じる安心とはどんなものなんだろうか。


「例えば、子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ」と言って子供を慰めながら、すりむいた傷の手当てをしてあげます。」このことで子供は転んで膝を打ちつけた感じをイタイというのだと理解して親との感情を共有し、転んで痛くならないように言いつけを守ろうと考えるようになり、痛いという不快感やイヤなことを回避でき、規範を守るという対価として安心を得ることができる、と彼は書いています。


安心を得ることができないと、生きている実感をあまり持てなくなり、存在感が希薄なので感情や意志や希望を持てず人生に関心が持てない。義務感に追われ疲れ果て、孤立し、虚しさを抱えており心から喜んだり楽しんだりできない。自責の念を強く持っている。対人恐怖と対社会恐怖との戦いと人や社会とのつながりからの逃走にエネルギーを消費して疲労し、衰弱し、虚無感に覆われてしまうのです。



留置所でリセットされて原点に戻りましたと。と彼は書いていますが、誰の中にも少しは感じるところがあるのじゃないかと思っています。次回の「祈りと按摩」の授業はこんなところから始めてみたいと思っています。









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