禅寺小僧

日々の記です。

般若心経を和訳して









今年のお彼岸は3月17日から23日までの一週間で(20日の春分の日
は彼岸の中日です)いつも初日の17日はよそお寺にいって施餓鬼に出て
くる。今年もそうした。寺に帰ってきて夜、般若心経を訳そうと思いつい
た。前から漢文から日本語にしたいと思っていたのだけど、その夜は巡り
合わせがあったのかもしれない。訳といっても、一字一句訳せるわけでは
ないし、そのとき思ったこと、なんでこの訳にしたか、をメモしておきま
す。


この訳にあたって目指したのは、みんなの前で日本語訳をを話して、聞い
たひとが少しでも般若心経の世界を感じれるように、ということです。


朝に書こうとおもって資料を食堂においておいたのが、誰かが動かしてし
まって、どこにあるのかわからなくなりました。資料のことはまた明日。

般若波羅密多心経
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経題はそのままおいておきました。手もとにある、中村元訳では、「全知
者である覚った人に礼したてまつる」とあるけれど、そう言ってしまうと
なんのお経を言っているのかわからないし、ハンニャーハラミターという
発音じたいに霊力があるからです。


観自在菩薩は、深く般若波羅密多を行じるとき、
五蘊はみな 永遠ではない、と見きわめ
一切の苦しみ、不幸を越えられた。
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行深般若波羅密多のところは、深を深遠なとし、般若波羅密多を智慧とし
、深遠な智慧の完成を実践していたときに、と訳されているが、行深のく
だりを、深く行じると訳した。お釈迦さんが菩提樹の下で坐禅して悟られ
たように坐禅して深く定に入っているときに、発見し、徹見されたという
感触です。
五蘊は存在する五つの構成要素という意味だけど、訳さずそのまますんな
り言うことにした。
空のところは実体がないと訳しているのが多いけれど、あるない、の話に
なるとつまらないものになってしまうし、覚られたのは、ものごとは移り
変わるということから、永遠ではないと訳した。
照見ははっきりと見る、を見きわめ、とした。
苦は苦しみ、不幸とし、度は渡すというところから越えると訳した。





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