禅寺小僧

日々の記です。

村を訪れて








河井寛次郎のエッセイの場所を訪れた話をこないだしたけれど、村のすぐ
横に真新しい幹線道路が大動脈よろしくとおり、京奈和バイパスもすぐち
かく、田んぼのむこうには赤と白に塗られた特に巨大な送電線の鉄塔がえ
んえんとつづいていた。鉄道も近鉄とJRの両方があり、京都、奈良、大
阪のどこにでも近い(どこにでも遠いともいえるけれど)いい立地で、か
つては裏の竹藪だったりしたあたりが、今は学研都市に生まれ変わり、研
究施設、マンション群、平たく大きなショッピングモール、人工的に作っ
た庭園などがあたらしく開けた道のまわりに展開している。知的なすごく
いい場所なんだね。












河井寛次郎が村をおとずれたとき、彼の眼にはそこは宝石箱に映ったにち
がいない。昭和19年にこの村に迷い込んだ彼は、68年後こんなふうに
発展しているとは思いもよらなかったこととおもう。
記事を読んでくれた人が、京阪奈の実験に行ってきたんですね、言ってく
れた。別に実験に興味があったわけでなく、バイクで走りたかっただけだ
ったのはもうバレている。新しい街も見てみたかったし、国会図書館も訪
れてみたかったけれど、まあなんとなくやめてしまったんや、と言った。
「まあ確かに美術館に行くことはあんまりない、けれど美術館でこれは芸
術ですと最初から認められていて額縁に入れられているのを鑑賞するのも
いいけれど、河井先生はそうではない普通のなにげない風景のなかに、そ
のまま、美しいものを発見しておられるんだ、このほうが凄いことだとは
おもわんか?」
本当は坊さんも芸術とかもわかったほうがいいのだろう。カンバスにゴッ
ホが描いたひまわりももちろんいいんだ。けれど、実際に咲いているのの
ほうがもっと好きなんだな、そんなことを言うと、あーこの人とは芸術の
話はできないね、という反応だからここぞとばかりに言ってやったのだ。
そしたら、
「ああ、河井寛次郎は民芸の人だからね、民芸の人は生活の中にとか、そ
んなことをみんな言うよ」
との返答だった。こっちがギャフンとなってしまった。
美しいものはどこから生まれてくるか。河井先生は、直接に物とは縁遠い
背後のものに一番打たれているのだ、とおっしゃる。背後のものとは何だ
ろう、その村の歩みであったり、人の生活であったり、心のうちであった
り、そこから出てきた手の動きであるのだろうか。
「どんな農家でもーどんなにみすぼらしくってもーこれは真当の住居だと
いう気がする。安心するに足る家だという気がする。喜んで生命を託する
に足る気がする。永遠な住居だという気がする。これこそ日本の姿だとい
う気がする」帰ってきて、本を探し出してみるとそう書かれていた。京阪
奈の近未来都市を見てきてこの文章に接すると、はたしてこれこそ日本の
姿だと感じれる家は、現代においてはどんな姿なんだろう。みんなはどん
な家を思い浮かべるのだろうと思った。













何を美しいとおもうかは人それぞれで、いつだったか京滋バイパスと第二
京阪の久御山ジャンクションが建設中のとき、上を通る京滋バイパスと下
の道をつなげる巨大なコンクリートの橋脚が立ち並びはじめた。その巨大
すぎるその存在感はもう圧倒的で、しっかりと地面に屹立しており、何が
ぶつかっても大丈夫そうだった。車に乗せてもらっていたら、
「こんなん好きなんやろ〜」
って友達がいう。この人は男前で、何にでもそつなく、芸術を理解し、絵
も描き、ちゃんとその絵が売れてデザインになったりする人なんだけど、
こっちの考えていることもわかるみたいである。
「そうなんですわ〜。見てください、この巨大な橋脚の円形の並び具合
を。ストーンヘンジの大きい版ではないですか。むこうから太陽が上って
くるんですよ。ああ、もうこのまま工事がストップして完成しなかったら
最高ですね。あの上に道路がのってしまうと魅力は半減です。今のまま、
あのまま別に何の役にもたっていないというのが、いいんです。完成して
路面を支えて、その上を車が走ってとなるとね。まあそのために作ってる
でしょうけど。ストーンヘンジだって、何のために作ったのかよくわから
ないところが、また魅力だったりするわけではないですか。このまま工事
がストップして、何千年後に遺跡になって発掘されたらなあ。ああ、あの
コンクリートの肌がきれいですねえ、あの大きなコンクリート削ったらア
カンやろし、足場組んで巨大な仁王像とか描いてみたいな。奈良の大仏
り大きいかもしれん。そしたらカッコいいと思いませんか?」
後部座席に座っておられる偉い和尚さんのほうを見たら、またコイツは馬
鹿なことを考えておる、というような顔をしておられた。
本当はツルハシで砕いたコンクリートのかたまりを、床の間に置いておき
たい。











何が魅力的かそれはその人しだい。
京阪奈の研究所で先生と雑談していると、
葛飾北斉の版画でストップモーションで止まっているのがあるんですけ
ど、その画を見ているときの脳を調べてみると、動いているものを見てい
るときの脳のはたらきと同じような使い方なんです」
と言っておられた。止まっている絵を見ているのに、頭の中では動いてい
るような気がするのを人間は面白ろがっているのかね。筆で書いた線で、
生きてる線やな、と言われるものもそんな感じで見ているのかもしれない
な。まあ難しいことはようわからん。「村の人達は村の美について勿論
気付いている訳ではない。それどころか、何処の村でも大抵の場合、そう
いう事には無関心である。・・・・また解ってもらう必要もないのだ。
というのは何も知らずにこんなに美しい村に住まっているとこう事自体、
これ以上に素晴らしい事はない筈だから」













河井寛次郎 「火の誓い」 講談社文芸文庫 現代日本のエッセイ 
第一篇 物と作者 「部落の総体」より
この本は買った覚えはないのだけど、河井寛次郎さんは子供のときに暮ら
した京都の陶器の町、馬町の人だったから本箱に入れてある。






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