禅寺小僧

日々の記です。

畳の上の水練の効用









禅問答について。
坐禅している最中はぼーっとしているわけではなくて、禅問答に
ついて考えている。考えているというのは語弊があれば、問答と
一つになっている。
有名なのに、片手の音を持ってこい、というのがある。
両手を打てば音がある。でも今は片手の音を持って来い、という
のを、考えれるのよ。
はてな?どうすれば、片手の音がだせるかな。
そうだ!指パッチンをすればいいじゃないか。と思いついて
老死のところに答えを持っていくけど、だめだ。と鈴を振られる
わけです。












これを朝晩朝晩繰り返していると、言うことが無くなってくる。
つまらないアイデアや知識は出尽くして、もうほんとに何も無い
というところにまでくるのです。
無いのに行かなければならない。
これは辛いですよ。
でもほんとはそこからが値打ちがあるんです。
困って四苦八苦するのを毎日、老師に見てもらう。それで鈴を振られる。
次行ってもまた振られる。しんどくってたまらない。
それでも何か持っていかないと叱られる。
こいつ困ったらこんなことすんのやな。と老師には見られてる。
一番しんどいところを受け止めてもらっている。
心の奥底で、言葉でいうこともなくなったところの極限でのつきあい
だから、やっぱり強い堅いものですよ。













自分から問題を出しておいて、それを解決するのなんて、
畳の上の水練じゃないですか。


そりゃ現実世界は厳しいよ。しかしだね、現実は厳しすぎるから、
現実で教育すると萎縮するということがないか?
畳の上の修羅場であるかもしれないが、乗り越えさせて、それだからこそ、
大きく、のびのびしたものができる、ということもありはしないか?