禅寺小僧

日々の記です。

禅語





この間の竹に上下に節有りのつづき


そうか、禅語ってむつかしいのか。
ものごとをありのままに見ることを禅という言葉で表している
のかな、と思っていたけれど、禅って言葉をもちだして、貼り付けると、
たしかに、禅っていうのは普通のこととは違うんですよ、という響きを
感じてしまう。


そして、あなたがいうように坊さんの話には、実はみんなが思っているのと、
違う深い意味があります、という展開なのがけっこう多い。


先日人に、禅寺小僧のサイトは2004年からやってるんですね、と教えられ、
すっかり忘れていて驚いた。そういえば当初、サイトのタイトルをどうするか
少し考えた。もちろん禅的な話も書きたいなと思っていたけれど、できれば
禅や仏教というカンムリは付けたくなかった。禅という言葉を使わずに禅仏教のことを
書ければいいのだが。どうも禅と書くと、ありのままに見る所から離れて
しまって、陳腐なものになってしまうと、感じたのだった。
ところがヤフーで禅を検索してみると、企業のサイトにばかりヒットする
ようだったから、やっぱり、禅という言葉を使ってみるか、と思ったのだった。
それで、禅寺小僧というふざけた名前が思い浮んだ。


手元にある禅林句集に、松に古今の色無く竹に上下の節あり、をひいてみると、
平等と差別。自らの性を違えずそのまま真理の妙を示す。と書いてある。
他の禅語辞典なども禅林句集を念頭において書かれているのでしょうね。


難しそうなので、辞典ではなくて夢窓国師語録から出してきたんだけど、
漢文だから写真をみて、ただそれだけで難しい、と思ってしまったか。
内容としては、去年は寺の住職をするのを断ったのにどうして今年は
自分から住職をしたいという気になったのですか?という問いに、
去年は思わなかっただけで、今年はそうしたいと思っただけ。
という答なんだ。


もう一度誰かが尋ねたら、
去年は思わなかっただけで、今年はそうしたいと思っただけ、と答えるかわりに
竹に上下の節有り、松に古今の色無し、と答えよう、ということなんだ。
去年は去年、今年は今年。


竹には節が有りますよ、松はいつも青いですよ。
竹は竹やし、松は松ですよ。
と、答えよう、と。


実は深い意味があるのでは?と探るのも悪いことではないのだろうけど、
竹に上下の節あり、松に古今の色無し、と言った風光を、その感じを
感じれればそれでいいんじゃないのかね?







ある日、お釈迦さんが霊鷲山で説法された。
何も言わずに、ただ手にしていた蓮の花をスッと前に差し出された。
大勢の聴聞の人々は意味がわからず唖然としていたが、
ただ一人、摩訶迦葉尊者が破顔微笑した。
それを見て、お釈迦さんは、
「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、
不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す。」
といわれたという。