禅寺小僧

日々の記です。

21世紀に生きる君たちへ

   

 なんでも便利で豊かな世の中になりましたが、その半面、心の
貧しさがささやかれています.効率と引き換えに、忙しさや厳し
さが目立ち、人の心の「やさしさ」が目減りしつつあります。


 慈悲という言葉は皆さんもご存知だと思います。仏が迷える衆生
憐れむことで、生きとし生けるものすべてのものを仏は見ておられ、
しかも利害得失のはからいがありません。至道無難禅師は仏の慈悲について、
火は物を焼いても火はそのことを知らない。
水は物を潤しても潤したことを知らない。
仏は慈悲を行って慈悲をしたことを知らない。といわれました。
慈悲とはすべてものに対する無償の愛、憐れみのことなのです。


 小学生の国語の教科書に、歴史小説家の司馬遼太郎さんの
「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章があります。
1996年に亡くなれていますから、二十一世紀は見ておられないのですが、
司馬さんにとって歴史とは、「それは大きな世界です。かつて存在した何億
という人生がそこにつめこまれている世界。」で、歴史の中にはこの世で求
めようの無いような素晴らしい友人がいて、司馬さんの日常をはげましたり、
なぐさめたりしているそうです。だから司馬さんは、少なくとも二千年以上
の時間の中を生きているような、ものだと思っているのだそうです。


 そうした長い時間を見渡して生きておられた司馬さんが、昔も今もまた未来
においても変わらない不変の価値、として自然をあげられています。自然に
基準をおいて考えてみれば、空気、水、土などの自然によって人間は生かされているのだと。


 でも、この態度は近代や現代に入るとゆらいでしまい、人間こそいちばん
偉い存在だ、という弱肉強食のダーウィンの進化論的思想がはびこります。
自然を所有し支配するのは人間である、という思想です。


 おもにアラスカの自然を撮られる写真家に星野道夫さんという方がおられて、
どうぶつ奇想天外」というテレビ番組の取材で1996年にカムチャッカ半島
を訪れている最中、惜しくも取材対象であるヒグマに襲われて亡くなられるのですが、
自然をじっくりと見つめた素晴らしい写真とともに自然の中で思索した文章も
残しておられます。その中のひとつに、


「自然は強いものだけが生き残り、子孫を残してゆくという。
オオカミに襲われるカリブーの群れは、逃げ遅れた弱い者が犠牲となり、
群れは強さを保ってゆくという。とてもわかりやすい説明なのだが、
自然は、本当にそんな教科書通りに動いているのだろうか。
もっと偶然性が支配している部分があるのではないだろうか。
自然はある意味において、弱い者さえも包容してしまう
大きさがきっとあるような気がする。」
と書かれています。