禅寺小僧

日々の記です。

去るものは追わず


「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には
広過ぎるのである。」見事な書き出しではじまる、
正岡子規の病床六尺は最初、新聞「日本」に毎日連載された。
そして最終回の明治35年9月17日(127回)が
掲載された2日後、子規はそのまま病床で息を引き取る。36歳。
彼はもともと病弱であったわけではなく、むしろ身心ともに
頑健であったらしいのだが、はからずも結核を患い、さらに結核菌が
肺だけでなく、脊髄をも犯す脊椎カリエスにより寝たきりになり、
膿が皮膚を突き破って流れ出し、穴を空けていた。


「絶叫。号泣。
ますます絶叫する、ますます号泣する。
その苦その痛何とも形容することは出来ない。」


「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、
誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。」


21回 6月2日に、
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は
如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違ひで、
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。


因みに問ふ。狗子に仏性ありや。曰、苦。
また問ふ。祖師西来の意は奈何。曰、苦。
また問ふ。・・・・・・・・・。曰、苦。


苦を抱え込んだまま、そのまま、生きてゆこうとする決意が見えないか。
禅宗を誤解して居た、と述懐しているけれど、きっと子規のこころの中で
変化があったに違いない。自分の人生に向かい合ってゆく覚悟ができたのだ。
右か、左か、どう生きてゆけばいいのか。
そのまま生きてゆくのだ、という。
良寛さんのいう災難の時節、病の時節、死ぬ時節と一緒になれた。


禅宗は、来るものは拒まず、去るものは追わず。だ、といわれ
傲慢かつ偉そうで、人を相手にしていないようにとられる
けれど、言葉づらを眺めただけではわからないことは多い。
寺に人が来たら、きっと、その人が見えなくなるまで
ずっと門に立って見送るもので、そこが、去るものは追わず、
ですよ。別に他人のことは知ったこっちゃない、関わりあいも
持ちたくありませんな。というのとは全くちがう。
なごりを惜しみつつ静かに去ってゆくのが一期一会だろう。


いまふうに数えて35歳になる直前、子規は苦しみつつ、けれど立派に病に逢い、
死ぬ時節に息を引き取る。


糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな