禅寺小僧

日々の記です。



 時季になって、丸いダイコンの種が地面に落ちたら、
雨の後あたりにふたばがでてくる。順調に成長すると
だいたい50日から60日で水々しい大根が収穫できて
人の口にはいることになる、おいしい、よかった、
これで終り、になるはずなんだけど。
抜かずにそのまま畑に置いておくと、さらにドンドン
太ってますます美味しい大きな大根になって沢山食べれるように、、、
なりません。残念ながら。どうなるかというと
大根の表皮のすぐしたに網目のようなスジがいっぱい
できて来て、それがだんだん硬くなって、強く、逞しく
なるけれど、水々しさも大根らしい味も失われてしまう。食べると、
口に繊維が残り、スカスカを食べているような気分がする。
おろしても、一口で、アカンわ。となる。
食べようと思えば皮を一センチ位の
厚みでむけば食べられん事ないけど、おいしくない。


 八百屋の店先やスーパーで山積みにされている大根は
大根の葉が光合成して、せっせと溜め込んだ栄養のタンク
のようになっている。栄養が溜まると、今度はそれを葉っぱ
のほうに使って、今まであった葉の他に小さい、新しい葉を
まわりから出し始める。まえからあった葉もさらに逞しく、
折ってみると、緑のはずの茎も中心が白く、空洞になって
大きくなる体を支える準備をするんだろうか。
根の中心にも空洞が入り、根に溜めたエネルギーを使って、
早春、白い十字の花を咲かせ、やがて種の鞘をいっぱい実らせる。
それが大根の一生や。
種を結んだ頃、茎もカラカラになり、根は真ん中のところは
全く無くなってしまって、周りの繊維だけが残り、
完全に網目だけになってしまう。
中身はとっくに腐ってしまって、虫や何かが食った残り。
人間でいうと骸骨なんやけど、ちょっとしたオブジェであるな。
時間が経てば、それも、土に還ってしまうわけなんやけど。


 江戸時代の至道無難禅師の語録
「人を待つに来たらず、
 人待たぬに来たる。
 かく思うこと叶わぬあり、
   思うこと叶うあり。」


お釈迦さんの、愛する人と別れる苦しみ、
怨む人と人と会わんならん苦しみ、
とおんなじ。どうも思い通りにいかん。
この世はそういうものらしい。
この秋は暖かかった。こうなることがわかってたら、
こんなことにはならんかった。もう一度やり直せるなら、
こんな失敗は決してしない。残念でならない。
けれど、大根に聞いてみたら、
「これでよかったんや。」
と言うかもしれない。
栄養を大地に帰して、土は黒く、柔らかく、
しっとりと湿っている。