禅寺小僧

日々の記です。

 雑誌の特集で、庭がとりあげられていた。庭は年寄りの趣味のように思われているかもしれないけれど、存外、そうでもないのかもしれない。剪定をしたり、土を入れたり、草を引いたり、地面を掃いたり、と庭にでてすごす時間は以外と多い。天気の良い日など、一人で木に登ってパチン、パチンとやるのは気持ちの好いものだし、庭など掃いてもすぐにまた葉っぱが散らかってしまうものだけど、足下の苔を眺めながら単純に竹箒を振り回すだけの作業にふけるのも悪くない。静かなブームに庭はなっていて、しかも昨日や今日始まったのではなくて、かなり以前からだろうし、この先も続いていくだろう。おそらくは、日本に四季があるかぎり、季節を見たい、感じたいと願う人がいるかぎり。
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 今と違って、スペースに余裕があった昔は、寺に本堂を建てても建物の前後を庭にした。寺に至る道にしてもそうだった。庭の中を歩いて本堂に行き、庭に囲まれた本堂で祈る。だから庭に囲まれて祈ってるようなものだった。だからなのだろうか、最近は立派な本堂や、偉い和尚さんの話よりも、庭の緑や石を眺めているほうがいい、なごむ。と言われる。庭の木や石はそこに佇んでいるだけで、なんのご利益も謳わず、願い事も聞き入れない。もったいぶったことを言うこともなく、人間の話をきいてくれるわけでもない。お前のことがよくワカルとうなずくこともないけれど、いっそ単純で、人をだましたりすることもない。
            
 まわりをきれいにしておくくらいの気持ちで庭を作る。高名な作庭家が名庭を作るんではない。名も無き人間がささやかに作る。大名や将軍がその権威を見せつけるために、諸国の名石、奇石を集めて作るんでもない。本堂の工事で、地面から出てきた石を据えてみる。角度をかえたり、左右に動かしたり。大根やニンジンを料理して、剥いた皮を捨ててしまわずに、キンピラの材料とするような、そんなささやかな庭がいい。いつか、土に埋もれてしまっても、かまわない。