禅寺小僧

日々の記です。

竹の茶室前夜










立木を組み、キャンバステントを張り、小さな薪ストーブを中に入れる
。流木を集め、火をおこし、湯をわかす。テントの煙突から白い煙が立ち昇り、コーヒーのかおりがあたりに漂ってくると、やっとホッとした。
こんな野営が何ごとにも代え難く好きだった。幸福を感じる瞬間とは、ありふれていて、華々しさのない、たまゆらのようなものだった。


このところ星野道夫の文章がアタマのどっかにひかかってたから昼間、図書館に行ってパラパラっと本をめくって探してきた。川を旅して一日が暮れてゆくときに、立木を組んで、キャンバスの頑丈なテントを張って、薪ストーブを持ち込み、火を焚いてコーヒーを沸かす。ああたいへん贅沢ないいことだなと羨ましく同意するのと、火が熾ってコーヒーの香りがしてくるとホッとする気持ちがよくわかるんだな。川下りで危ない難所でちょっとヒヤヒヤしたりした、心地いい疲労感をいだいてたのが、火のパチパチはぜる音と白い煙、豊かなコーヒーの香りに誘われて、心と体の力がホッと抜けてしまう。水はそのまま変わらず流れつづけている、一日の終わり、そんな夕暮れの河原の風景がいいなあ。そして、そわそわしてとか興奮してではなくて、心を落ち着けて、じっくり、深く、細かく、味わいたい。走る馬の上から次々と沢山の珍しい花を見てゆくのももちろん楽しいだろう。でも、ありふれた華々しくもないものが、かけがえのない愛おしいものだったと思いつづけていた。


そんなことがあって、コーヒーやお茶は自然の中でホッとできるいいキッカケになると思ってた。旅をしているとき好きだったのは、目覚めた野宿の朝その場所でお粥を炊くこと。そのあたりに落ちてる小さい枝葉をちょっと集めて火をつけて、米と水と入れたコッフェルをかける。夜風で冷えた身体で火をつくり暖かい粥を喉にとおす。たったそれだけのことが、なんとも贅沢な幸せな時間だったな。


そんなこともあって、一連の竹の茶室にへとたどり着いたのでした。カヌーに積んだ、中で火の焚けるキャンバステントはもってないけれど、肩に担いで山に持って行ける、竹でできた枠だけの茶室になったのでした。







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