禅寺小僧

日々の記です。















母方の祖母は加賀の大聖寺の生まれで、漆塗りの一間廊下のある大きな家
の三女に生まれた。農家だけれど豪農だったらしい。そのころ京都にある
親戚の家から人がやってきた。その家はもともとは銭亀という屋号をもつ
リッパな家でお金持ちだったらしいけれど、お金が沢山あるというのはま
た無くなることもあるらしくて、破産し夜逃げ(たぶん)して京都にきた
のだと。そこに子供がなかったんで貰い子にきたところが、最初にもらう
はずだった子供がやっぱり行きたくないとダダをこねた。それで仕方なく
あんた行くか?と尋ねられたのがまだ物心つかない祖母で、うん行く、と
言ったらしいんやと言ってたな。
















そんなこんなで京都にやってきたところ、お父さんが日露戦争から生きて
帰ってきて、でも体調がすぐれなく眼の病気で入院したら、コロッと死ん
でしまい、母一人子一人になってしまった。母は幼稚園に勤めていて用務
員をして、子供はバイトにせいを出した。子供のバイトはあんまさんの手
引きで、そのころ知恩院まえの古門前に住んでいたから、あんまさんの手
をひいて、今日は祇園のどこそこへそれでその次はというふうに眼の見え
ない按摩さんを患者さんの家まで送っていくのが仕事だった。この子がえ
えとかわいがってもらい、また内職もたいそうがんばって手先が器用だっ
たからナントカっていう糸でビーズをとおしてきれいな電球の傘を作った
。お金は一銭二銭と竹の筒のなかに放り込んで、貯金した。そうしてお金
を貯めていた。














見てくれは悪いけど働きモンやというので結婚した相手は、伊賀から出て
きて船橋さんで丁稚奉公して独立した地金屋さんだった。けれど何でも屋
さんで、ポンプもやるし電気屋もやるしモーターの巻き直しもするしでな
んでもした。戦争が終わったころは京都スナップという名前で服につける
スナップも作った。缶詰の缶をたたいてのばし、打ち抜いてスナップにし
ていた。だから裏をみると、ミカンだとか魚とかもとの缶詰の印刷がその
まま描いてあった。打ち抜いたのをスナップの形にプレスするのはお箸で
入れていたけれど、バイトにきていた近所のおばさんがうとうとしてしま
い、指にスナップの形で穴あいてしもたんや、といっていた。そのころは
五条の鞘町下がったあたりで、やがて今熊野に移り、一号線沿いの下鳥羽
に移ることになった。
















その頃は伸線をしていた。針金を炉に入れてダイスに通してひっぱり、よ
り細い針金を作る。工場があって、事務所があって、寮があった。工員さ
んには親戚も多かった。その当時若い労働力は金の卵といわれてなかなか
きてがなかったのだ。地味な仕事だったけど人はいっぱいいた。山城新吾
さんが亡くなったとき、父親がおまえうちの工場でむかし山城新吾が働い
てたん知ってるか?といった。そんなに長くはなかったらしいけれど、あ
んなに有名な人でもそんな頃があったんだ。食堂には暖炉があったのを覚
えている。火をいれたことはどうだったか。















祖父の葬儀のときは家の道の両側に花が並んで連なり、いろんな人がいっ
ぱいやってきて賑やかだったけど、もう三十三回忌もすませた。いま祖母
が亡くなって、もう祖母の姉妹も全員亡くなっていたので、誰も呼ばず家
族だけの葬儀ですますことにした。今風のホールでする家族葬で、母方の
親戚、つまり祖母が産んだ三人の娘と、その連れ合い、その子供つまり孫
と、その子供つまり曾孫と、そのまた子供玄孫が集まってきた。母系の一
族郎党だけでもこんなに沢山いるのだった。工場があるころはみんな一緒
に暮らしていたようなものだったから、孫同士久しぶりに会ってたいそう
うれしく、一周忌には孫会をすることに決まった。ひょんなことで祖母は
京都に出てきて苦労して一生を終えたわけだけど、思いをついでゆく者た
ちをよくもここまで増やしていったものだな。実家も一つ上の姉の家もつ
づいているけれどそんなには増えなかった。わが一族だって、あの大きな
家に住む人もなくほとんど空き家になって、それぞれわかれてマンション
暮らししたりしている。工場も大企業におされて廃業し、貸し工場貸倉庫
から今では飲食店になった。隣の工具屋さんは移転して跡地はジャスコ
なり、インク屋さんは家電量販店になった。車が行き交い、道の両側に溜
まった、埃っぽい、白いような黒いような煤煙の混じった砂を水でドロン
コにこねて遊んでいたころの一号線の面影は無くなった。日本中の国道沿
いならどこにでもあるチェーン店が煌々と明かりをつけてきれいな町に変
わった。祖父が死んだときとでは葬儀のしかたも変わったけれど、生活の
しかたも変わった。初七日をすませて孫は今住んでいるそれぞれの街へ帰
る。長いこと寝ていたので、亡くなってからも祖母の足は膝を折り曲げた
ままで伸ばすことはできなかった。もう脚の裏の筋肉がちぢこまったまま
になったんだな。脚が伸ばせないのは可哀想な気もしたけれど、羊水の中
にいる胎児の姿勢とも似ていたし、屈葬という言葉もおもいうかんで、こ
れはこれでいいのかなとも。
















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