禅寺小僧

日々の記です。

四弘誓願2



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鈴木大拙という学者がいた。善の研究で有名な京都学派の西田幾太郎と同
じ1870年に同じ石川県の生まれだった。彼自身は僧侶ではなくて、在家の
人だったけれど、明治の時代にアメリカに渡って、禅を海外に紹介する。
そのおかげで日本の仏教の中では禅宗がそれほど大きい教団ではないのに
も関わらず、海外で知ってもらえることになった禅宗にとっては大恩人で
ある。だからZENという単語は始めに坊さんが広めたわけではなくて、禅の
ファンの一般の人が宣伝してくれたのであって、だいたいにおいて坊さん
は宣伝は苦手なんかもしれない。鈴木大拙みたいな人がいてくれたら、と
思っている。鈴木大拙は沢山の本を書いているから、禅に興味があるとい
う人に、鈴木大拙は読みました、と言われるとギクッとしてしまう。実は
それほど読んでいないので、知識がないのがバレてしまうのではないかと。








とはいうものの、全然読んでいないかというとそうでもなくて、講談社学術
文庫に入っている、一禅者の思索は読んだ。エッセイみたいなのを集めたこ
の本は、あまり難しそうではなかったので。その中で「大地と宗教」という
一遍が好きで、これは1942年に富山県の石堂というところで大拙が公演した
ものを筆に起こしたもので、難しい哲学の思索ではないから、簡単に頭に入
ってくるのだと思う。その中で大拙は、「近代生活ー都会生活のすべてには
信仰が入っていない」といい、「宗教を生かしてゆくには大地をはなれては
できないということなのです」「今日の時勢と申しますかこれがはなはだ宗
教を遠ざける方向にのみ進んでいるということは、人間性そのものを否定す
る方向に進んでいるということになります。」「近代生活がこう騒がしくな
って、その落ち着きを失い、互いにぶつかり合うようになってきたのは、ど
うしても大地というものを離れたからです。70年も前にそうおっしゃって
いる。もう生まれた最初から大地と離れて、自然とも季節とも別れてしまっ
ていては大地と引っ付いていることのほうがもうわからなくなってしまって
いるけれど。







「大地はどういうものでも皆引き入れてしまう。受け入れてしまうのであり
ます。美しいものも穢いものもことごとく吸い込んでしまって、知らぬ顔を
しているのです。」「死ぬ、蛆がわく、つやつやきれいであったものも、
〜〜 が、大地はそんなに穢いものでも何もかも皆収めてしまう。そして収
めたものから、新しい生命を産み出させる、これが大地の慈悲」






少しむつかしい話になったら、引用ばっかりになってしまった。向いてない
のかなあ。今日は雨ばっかり降る。





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