禅寺小僧

日々の記です。

竹有上下節 松無古今色


竹に上下の節有り、松に古今の色無し。
枠で囲んだ版木本の後ろから3行目、2行目に出ています。







天龍寺の遠諱でいただいた夢窓国師語録を見ながら、
ウトウト、。。


どうやら、もう一度人生に賭けてみる気になって、
最後の修行を!と古巣の天竜寺に帰ってきた。
入門を請うていると、はるか下の後輩達が狼狽している。
勇んでやってきたのだが、経本、自鉢、剃刀という基本的な
個人装備を忘れてきている上に、何故だか下半身にはトレパン
を履いていて、
「明日持って来さすわ。」
とか言っているうちに、夢かどうかもわからんうちに、
覚めてしまった。


弟分が転勤するというので餞別に「竹有上下節」と書いた扇子が
あったので渡しておいたら、
真面目な奴なので自分なりに意味を調べたらしい、


 >松は絶えず緑であると言われながらも、
 >その中には古葉と若葉の古今の差別が歴然としてあるし、
 >竹の節には歴然とした節という上下の差があるが、
 >全体としては優劣の無い同じ一本の竹である。
 >それが平等の中に差別があり、
 >差別の中に平等があるということらしい。


 >平等と口にしようとも、世の中は誰もが完全同一ではありえず、
 >それぞれには個性も特徴もあり境遇も役割も違う。
 >家庭には親子男女の違いがあり、組織にも上下の関係が有り、
 >社会には貧富の差があり、長幼の序があって調和する。
 >それを老幼の差別順序を無視したり、
 >機会平等としての貧富や優劣のみを認めるのではなく、
 >人間(あるいは物事)としての本源的な平等に目を向けなさい。


平等の中の差別、差別の中の平等。
こういう解釈が世間的にはウケるようだし、彼が引いてきたように
辞書にもそう書かれているようであるが、竹に上下の節あり、
松に古今の色無し。と語句だけピックアップするのでなくて、
どのように使われていたのだろうか。


夢窓国師天竜寺や苔寺の庭を作庭したことで一般に知られているけれど、
南禅語、浄智語、円覚語、再住南禅語、天龍語、再住天龍語など、それぞれの
寺に住職したときの語が語録に残されている。
天龍語、南禅語をみてみたけれど見つからず、円覚語にあると教えられる。


宜春の太守が慈明和尚を南源に住職させようとしたが、
慈明和尚は固辞して赴かなかった。
が、後日、太守に会って、行きたいと願った。
太守が何故かと、問うと。
「始めは之を欲せず、今はたまたま之を欲するのみ。」
と慈明和尚は答えた。


今もし人がきて、
「あなたは去年は固く郡長官の命令を断ってこの寺に来なかったのに、
今日はなにゆえここに来て席に坐っているのか?と問われたら
こう言おう、
竹に上下の節有り、松に古今の色無し。」


夢窓国師円覚寺に住職するとき、この慈明和尚の故事を引かれたから
夢窓国師語録に残っているわけだが、去年は断ったのに、どうして今年は
住職してるんですか?と聞かれたら、
竹に上下の節があるようなもんさ、松に古今の色は無いようなもんさ。
そのまま、じゃないの。


竹に節なんていうと勝手に、キッチリ折り目正しくせんとアカンという
ことか、などと深読みしたくなるのもわかるが、深読みしすぎってのも
どうだろうかね。


竹は竹で、松は松。
いろんなあり方があるし、いろんなやり方がある。
それぞれにな。


まあ毎日、旨いマンゴーでも食って、楽しんでくれヤ。