日本的なもの
個性の時代のは、自分の何らかを表現するのだろうから、
自我、自己を打ち立てなければならない。作らんといかん。
自分なるものを幾重にも重ねていくのは、しんどい。
宗教の話をするのにも、古今東西の万巻の書をよんでから
でないと、議論にならない。勉強しないから自分の思うことを
言っているだけで、話にならない、といわれてしまう。
例話にひいてこられれば確かにカッコいいのは確かなんだけど。
もちろん、学徳兼備、学問と修行ともおさめるのが一番だろうけど、
わりとありがたいと思うのは、禅宗の禅問答で個人の経験とか知識は
むしろ問われなくて、つまり、勉強してきたことを言ってもまったく
相手にされない。毎朝、毎晩、師匠のところにいって、何か答えるのだけど
何を言ってもダメ、それが何カ月か続くともう言うことがなくなる。
ふん詰まりになって、やっと、意識の下にあるものが湧き出てくる。
そんなもんである。
道元禅師いわく。
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
そこには個性の表現でなくても、自己を肯定できるものが
あるのではないか。
そのまでゆくと個性を超えた普遍性に達するのでは
ないですか。
あなたは仏像を模写したいというけれど、模写しつつも
自分こころの奥深いところにある、慈悲心のようなところを
写せば、共感を呼び起こすかもしれないな。
海外で活躍しているアーティストが、日本の伝統文化も何も
知らないと本人はいうけれど、作品の中に日本を感じます。
といわれるんだそうだ。もともと心の底にあった普遍性なの
だろうか。