禅寺小僧

日々の記です。

墨跡

ふつう、書の展覧会というと、それぞれの団体主催のが京都市美術館なんかでやってるを見ると、半切や全紙のでっかい紙にでかでかといっぱいに、墨を塗るように字が書いてある、風におもうけれど、現代の書は(すくなくとも美術館で飾られるのは)最初から作品として、製作されているもので、観客さんは作品を鑑賞する。出品する人は、作品を仕上げるために、普段から、半紙や全紙を買い込んで、手本を見ながら、上手い、いい字を書けるように、出品して入賞できるように、練習している。世の中の風潮として、政治家だとか、文学者であるとか、ひとかどの偉い人の書いた字を掛け軸にして、床の間に掛ける、ということがある。昔の偉い坊さんの字も珍重されていて、その影響か、今の坊さんの書いた字でも掛け軸にしたがる人がいる。掛け軸の材料としての字をもらいに坊さんのところに行く、ということになるんだけど、坊さんは書家じゃないからそれほど字が上手いわけでもない。場所にもちろん差はあるでしょうけど、内容は問わず、坊主であるというだけで人間としても評価は、学校の成績でいえば60点、という風潮がなんとなく、あるので表具して掛け軸になってしまう。それを見て、書家先生方は、「もっと練習したらどうですか?もっと勉強されたほうがいいですよ。」とそれとなく忠告してくださる。「いやー、なかなかあきません。」というけれど、上手や賢いは苦手やなな。上手と高尚な人はなんとなく許せないものがあるんやろな。さて、大阪市立美術館のは、大きい字を掛け軸用に書いたような現代風なのは一つもなかった。だいたいがそれほど大きくない紙に書いた、手紙、行事で張り出した漢詩、弟子にあたえた僧名、役割分担張り出し表といった、どれもこれも実用品として、書かれたものが表具されたものなのだった。自分の心象を表現しようとして作られた現代品ではなかった。ましてや、売るために書かれたものでもなかった。作品にありがちな、押し付けがましい気品も、いやらしい迫力もなくって、古いもののほうがかえって清清しい。