禅寺小僧

日々の記です。


     
        
   
 世の中ラクなのがいいのか、と思っていたら案外そうでもなく、
お寺にもキビシイことを期待してはる人もおられるようで、
和尚さんはどんな厳しいことをしているんですか?と尋ねられたことが
実際あった。タジタジとなっちゃう。しかしだね、あなた、呼吸法を教えてもらって、
ウンウン言って、厳しい修行を一時間、ニ時間したとする。
それでキツかった、エラかった。でも、俺はやった。という充実感を手にすることになるだろうが。それは修行が厳しければ厳しい程、さらに俺はやった。という充実感は強いに違いない。でも実はここが落とし穴になっていないだろうか。よく考えてみれば、無理してウンウン言わないでも、呼吸というのは勝手に呼吸のほうでやってくれているし、二時間の修行だったら残りの22時間は呼吸法とは関係ない無意識の呼吸だったということ。そこでどちらに値打ちを置くか、ということなんだが、無意識の22時間の方が、2時間の意識的な厳しい修行よりもエライのじゃないのだろうか。でも聞かれるのは厳しいことをしている2時間の方なんだよな。
    
 なんでそんなことを思うのか、というと瞑想修行と聞いて、昔、道場に居たころは、お経を読んでも、托鉢をしても、掃除しても、草引きしても、全て瞑想だったな、と思えてならない。仕事をしていても、ただJOBとしてしているのとは違うおもむきがあって、坐禅修行はあくまでもその総仕上げみたいなところがあった。だからただ坐禅瞑想が何時間というのだけでは計れないものがあるんじゃないのか、とおもうし。無意識にしている時間の方が大事なような気もする。身体の弱い人なんかで呼吸法を聞かれて、身体にいい呼吸をされると素晴らしいと思うのだけど、それは意識的に呼吸しているホンの数分のことなのかも、それ以外は自分に染み付いた呼吸になるのかと思うと、呼吸法もまだ実用段階ではないのか、と感じざるを得ない。