禅寺小僧

日々の記です。

悪源太

やまぎわ

 源義平は平安末期の武将で源義朝の長子である。
勇武にして強悍、15才の時、叔父義賢とと戦って
これを斬り、悪源太の異名を得る。
後に平治の乱に父に従って奮戦、
平重盛と戦い、走らせた。
父の死後単身京都に入って平家を覗い、
永暦元年捕らえられて斬。
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 タメシに「悪」を字引で引いてみると、人倫に反するほしいままな行為のような道徳的悪。よくないこと。正しくないこと。不道徳。法律に違背すること。よこしま。邪気。といろいろ並べてあってその次に、猛々しく強いこと。とある。
 名前に悪とつけるのは最近では滅多に無いのだろうけど、過去帳などを見ていても、昔の人の名前には案外、「悪」とつける場合がある。悪太郎、悪彦の類だ。強く育って欲しいと願う親の心がそうさせたのだろうが、信じられますかな。その子はただの悪ガキになっただけかもしれないんだが、悪には「悪い」というのと「強い」というのと両方の意味があるので、先祖の名前に悪吉さんがいたとしても、悪い事ばかりしていた、というわけではないだろうからご安心ください。
 で、仏教説話ではどうなっているかというと、因果応報というやつで、善いことをすれば善い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある。つまり、悪いことをしたらバチがあたりますよ。と、説いていますわね。日本霊異記などの古い説話ではとくにそんな話が非常に多い。ところが、神話の世界を見てみるとどうも事情が違うようで、悪いことをしまくった悪の英雄?がなんの罰を受けなかった、なんていうのが、洋の東西を問わずでてくる。サドの悪徳の栄え、みたいなもので善いことをしている人は悲惨な運命を辿るのに悪徳の限りを尽す奴に限ってバチが当たらんみたいなもんや。しかも、悪い事をしまくっていたときにはなんともなかったのに、改心してキリスト教に帰依したとたんに、カミナリに打たれて死んでしまったりする。
                        、
 いったい、これは、どうなったるのや?