禅寺小僧

日々の記です。

 「和尚ー、禅てどう説明したらいいんですかねー。」との電話あり。ヌシは痩身、長身でどっからこんな風が吹いてくるんだというくらい飄々として一生かかってもこの男にはおいつけそうにもない。20代半ばで、会うたびに仕事が変わっているような奴で、早い話しが定職も落ち着きもない。けれど誰からも憎まれない稀有な人物なので、「ウロウロしているくらいなら思い切って1年くらい寺に入ってみたらどや、心が落ち着いて自信もできるよ。」というのだけれど「ムリですわー。」とのことだった。彼も自身をふりかえって思うところがあるのか2年間海外で働くことを決めたらしい。現地の人に説明するのはどうしたらいいか、ということを聞いているのだ。

 「和尚ー、禅てどう説明したらいいんですかねー。」との電話あり。ヌシは痩身、長身でどっからこんな風が吹いてくるんだというくらい飄々として一生かかってもこの男にはおいつけそうにもない。20代半ばで、会うたびに仕事が変わっているような奴で、早い話しが定職も落ち着きもない。けれど誰からも憎まれない稀有な人物なので、「ウロウロしているくらいなら思い切って1年くらい寺に入ってみたらどや、心が落ち着いて自信もできるよ。」というのだけれど「ムリですわー。」とのことだった。彼も自身をふりかえって思うところがあるのか2年間海外で働くことを決めたらしい。現地の人に説明するのはどうしたらいいか、ということを聞いているのだ。
          
 そんなときには臨済宗黄檗宗公式サイト(右隣のアンテナに登録してあります)を教えてあげればいい、そこの禅とは?のタグをクリックしたら正解がでてくる。のだけど、ここでハタ、と思ったことは「禅宗」について記述することは宗旨なり歴史なりを書けばいいわけで、調べれば客観的に事実として書ける。けれど、宗派をはなれての「禅」についてということになるとこれは一個人の信仰なり宗教であって心の問題だから歴史に書かれることも無いだろうし、個人の心にまでいってしまえば過去の誰かの考えた宗旨というのもほとんど関係がなくなってくるように思う。もちろん人に訊かれたら、「仏教徒です。」と答えればいいのだけれど。        
        
 いや、「仏教を信仰しています。」のほうがいいのだろうか。世界では今日も宗教同士が対立していて宗教戦争の原因とテロリズムの悲劇を毎日のように撒き散らしている。ヤラレタラヤリカエセのお題目を互いに実行なさるのでこの先いつまでも続いていくことだろう。異教徒がこの世にいる限り。今と同じ精神がこのまま続く限り。宗教が悪の元凶の一つになっていてさらにこの世に苦しみを撒き散らしているようにおもわれるけれど、対立をつぶさにみていくと宗派同士がその単位になっているのではないか。一個人の心の内の信仰からではなくて、人々があつまって構成している宗派や宗旨、歴史が対立を生んでいる。外国に眼を向けるでもない国内にだっていくらでも宗派同士の争いがあるではないか。宗論はどちらが勝っても釈迦の恥、という川柳があるけれど、どうも昔からそんなことがつづいているようですねえ。