禅寺小僧

日々の記です。

横笛

hekigyokuan2005-07-05

 どこからか、笛の音色が聞こえてくる。来る、やって来る。演奏者が風になって、吹きつけてきた。あの人がくる。左の方から眼に見えそうな風がやってきて押されつつひき込まれてしまった。一つの光景が見える。向こうを向いているのは何代か前の自分。手前は草原で葉のない樹が立っているから冬なんだろうか。だんだん下りになっていて下はおそらく盆地になっていて、川も流れているんだろうな。その向かいにも山がつづく。向こうのほうから吹いてくる風に吹かれている過去の自分を後ろから見ている。そういや昔は寒いくらいの風に吹かれるのが好きだった、今の自分。あれはどこの風景なのだろうか。先祖伝来、一族郎党が生きてきた土地だったのだろうか。そんな気がして成らない。夜なんだろうか、夜明け前なのだろうか。顔はわからなかった。暗い、モノクロームの風景のなかで、長い時間吹かれていた。
 坐禅中は眼を開けているのだけど視覚的イメージが浮かぶことがある。このときもそうだった。笛の音色は大地のどこから吹いてくるのか、過去のイメージを一緒に連れてきてくれる。触覚的には、外から吹いて来る暖かいものにつつまれる。石と笛で受け取るイメージが対照的なので楽しい時間だ。やがて笛が去ってゆき、石が微かな残響をひきずりながら遠ざかってゆく。ぽっかりと、巨大な、無音の空間が開きはじめる。張り詰めていながら伸び伸びしてしているような不思議な感覚がなだれ込む。無から始まった演奏会が無にもどる。日本から来た禅僧はゆっくりと坐禅を解いてたち上がり、下駄をはいて、何事もなかったかのように歩き出した。カツン、カツン、と音を残して。しばらくして、いっせいに拍手が沸きあがる。この十年の生活のなかで坐禅は大きなテーマだった。坐禅で自分を究めたかったのか、それとも自分から逃げ出したかったのかわからないけれど、こころの中の大きなテーマであったことは確かに、言える。勉強はしなかったけれど、内部感覚は気にしていて、自分なりの坐禅はできた、思う。チャラチャラ遊び気分でやったのではないのは聴衆にもわかってもらえたはずだ。日本では小さな一寺院で出来の悪い禅寺小僧かもしれないが、ある人の代役で連れていってもらえ、舞台にまで上げさせてもらえて、さらに何か感じてもらえて、幸せだった。
 楽屋に帰って着替えていると、「お会いしたという方がおられますがお連れしてもよろしいですか?」とアシスタントの人に名前を教えられて、驚き、一もにもなくこちらからロビーに行くことにした。無の余韻にまだまだ浸っていて立ち去りがたい人々が沢山居た。最初どこにいるのか眼を凝らしてみてもわからなかって、ドキドキしたけれど、向こうからスッと歩いてくる頭にキリリとバンダナを巻きつけた小柄なあなたの姿を見つけて雀躍した。「まさか、ほんとに来てくれるとは。」「よく切符がとれたねえ。」「電話で取ったらラストだった。」同じフランス国内とはいえ大変なことだろう。子供を寝かしつけてから来てくれたのだ。「主役じゃない、カッコよかったヨ。」もちろん主役じゃなくて脇役なんだけど、この一言で、どこからか何かが零れ落ちる。ホッとした。心底。どこかが元に戻った。全ての予定は何とかだったけど、どうにか消化した。ロビーにまだいた人に質問を受けたりして、部屋にもどる。もうするべきことは何もない。明日は少し街を歩いて、あとは寺に戻るだけ。