禅寺小僧

日々の記です。

上求菩提、下化衆生

hekigyokuan2005-07-06

体験学習で寺に来た、フリースクールの子供たちからの感想文が届いたんで読んでるところ。その日の思いつきで、茶室の見学、体操、坐禅、手を上げて坐禅、お茶。というようなプログラムにしたのだけど、去年の生徒たちと比べて落ち着きのない子らの比率がどうも今年はちょっと多かった、みたい。彼らは数的には少数派なんだけど静かなところでは目立つからそう思うのかもしれんけどね。しかし自分の内面に引きずられて、目前のことに集中できないというのは不幸なことであるな。頭の回転は速いのかもしれないが薄っぺらな印象がある。若いうちは上を見ていて周りのことがたえず気になるから、どっかり坐りこむのはバカみたいに感じるのだろうか。しかし自分の身体に聴かせてみて、手を上げた坐禅より、手を下げるほうが好き、という子が多かったから坐禅の目指している方向ぐらいは感じれたのじゃないだろうか。(手を下げてするほうが体の重心が下がって呼吸も下がる)アタマではバカらしくてもじっくり取り組んでみたら身体の感覚からいうと得るもがあると思うのだけどね。昔だったら棒で背中を叩いたりして集中させたのだろうけど、今はそんなことしたらエライことになるし、来年は最初に冷たい井戸水で掃除させたりして触覚と身体を働かせてみることにするわ。アタマになんでこんなことするんやろ、アホらし。という考えがこびりついとったら身体もいうことをききまへん。世の中にこれほどヒマで苦痛で何もしないこともないだろうし。けれど中学生諸君、こんなにつまらないことでも一つのことにじっくり取り組めばGi-man氏のいうような面白みもでてくるのだよ。十年やったって新たな発見があって飽きない。自分の至らなさもわかるしね。日本の文化の勉強でモノとしてどんな寺院なり茶室なりが残っているのか調べて年代その他のことを知っているのも大事かもしれんが、それがどっから出てきたか、というのを感じておくのも全く値打ちのないことではない。現代にまで伝わってしる禅寺の建物や庭園、禅仏教に影響されて成立したといわれる文化の根っこは、あの何もしない、これ以上ヒマで苦痛なことはないような坐禅がもとになっている。今実際にやってもらって感じてもらったその感覚が根っこになっている。坐禅がなかったらこんな寺もない。日本文化の教材として見てもらったこの寺の建物も庭ももとをただせば、あのつまらない坐禅でできているのだ。石を叩いて音をだすのはつまらないことかもしれないが、それだってじっくり付き合っていけば何千人ものひとが感動するように。厳しいことをしたからエラくなるわけではなく、動かなかったから、脚の痛いのに耐えたから坐禅修行したことになるのでもない。坐禅自体がありがたいのでもなんでもない。それよりも、自分にとってどうなのか、というあたりが大事だと思う。
          
             
             









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