禅寺小僧

日々の記です。

モノクロームが好きだ。

 なんとなくモノクロ写真が好きで、昔は暗室に入って現像したり引き伸ばしたりしてたんだ。酢酸の臭いとか、赤いセーフライトで照らされておぼろに浮かんでくる印画紙の画像、現像液のヌルヌル、真っ暗な闇の中でステンレスのリールに巻いていく時のフィルムのベース面と乳剤面の触覚の違い、目覚まし時計を睨みながら現像時間を計ってタンクを倒立攪拌し、泡とりに机にコンコンとぶつける音、定着、水洗と終わって、ロープに洗濯バサミで背丈ほどの長いフィルムを吊るしたこと。乾燥してハサミでシャキリと切りながら感じる充足感。どれも、これも、ありあり、憶いだせる。

 写真の現像というのは化学反応を使って、フィルムに映った光の痕跡を取り出す作業なんだけど、現代のデジタル時代とはちがって、職人芸的繊細さが要求されるのだった。同じ印画紙フィルムを使っても人によって仕上がりの美しさは全くといいほど違うので、どうしたらきれいに仕上がるのか研究もし、試行錯誤も繰返した。おかげでそのころ体を壊していたけれど楽しくすごすことができた。印画紙の上に画像が定着するまでには、こまごまとした準備、液温や埃にまで気を使う作業、それらをすべてあわせた時間、写真表現にたいする情熱とやり遂げるための気力と体力が必要だった。貧しいお金で100フィートのフィルムを買っては暗室の中で切っていた。どれもこれもが手間のかかる、七面倒くさいものだったけど、あの頃のネガフィルムには莫大な価値があっただろ。もしかしたら傑作かも、と想像力を掻き立てられるし、反転画像の中ではいい写真が撮れたような気になることが出来た。現像の終わったフィルムをリールからスルスル延ばしてゆくときの期待と感動、手応え、もしくは喪失感といったら。。。この手の中から傑作も駄作も生み出せた。

 そんな悠長なことが出来る時間は遠くに過ぎ去ったけれど、若くて感性に溢れていたとしても今だったらもうあんなことはしないだろうし、できない。印画紙だってもうほとんど売っていない。モノクロ写真を一からやれた最後の世代であってよかったと思ってる。だからたぶん一生モノクロが好きだと思う。四月に喫茶店の店内で何枚かのカラー写真を並べさせてもらったとき、ある人から、「モノクロを撮る人の写真だ、と思った。」といわれたけれど、この眼に世界が映るとき今でも光で見ている。色彩感覚では見ていない。センスがないともいえるんだろうけどな。どうやらどこまでいってもモノクロが好きというのは染み付いて離れないみたいだからこの先はゆっくりデジタルでモノクロ写真にチャレンジしていきますよ。きのう帰りながらそんなことを考えた。それでは、また。




せ。