禅寺小僧

日々の記です。

柳は緑花は紅

hekigyokuan2005-04-30

現在ではたいてい、死といったら病院で死ぬことがほとんどだと思うし、葬式も最近では葬儀会館、ホールで行われることが多くなってきた。手間がかからずになんでもかんでもが便利になった。医療機器に囲まれて、清潔な病院のなかで自分の一生つづいてきた生命が途絶える。お医者さんに看取られて死亡診断書を書いてもらったら、今度は葬式会館やホールに直行して、お経をあげて、焼き場へ急ぐ。スピーディーにことははこんで骨壷の中におさまることになる。けれど、たまにお経をあげさせていただくほうとしてはだんだんお葬式が簡単になって便利にはなったのだろうけど、物足りない、印象に残りにくくなってきているような気がしている。村の葬式にいくと葬儀もやはり村の行事として行われていて時間はかかるけれど、村の一員であった故人を偲んで、丁寧にみんなで送っている。という実感がある。それが都市部でできないことは承知していて、しかたないと思っているけれど、便利さを追求したら思想もどこかにいってしまったのでは?と感じている。確かに鉄筋の建物のなかで息途絶え、送られるは快適だとおもう。忙しい参列者、遺族のかたには朗報なのだろうけど、思想はどこへいったのだろうか。死んで神に召される人はどこで死んだとしてもかまわないのかもしれないけれど、古来の、理想の死に方は「願わくば 花の下にて 春死なん 」なんてところじゃないか、と想像する。一花、一木、風のそよぎ、地面に落ちる光に神を見、仏を感じるのが、日本人の感性であった時代は終わろうとしているのだろうか。