禅寺小僧

日々の記です。

美しい歩きかた。

アジア

自分の中のどこかに思い込みがあって、自分自身にモトから備わっているチカラでもって
カラダでもココロでも、ソコソコ直るんではないのか?という考えが抜けない。健康とい
う実体があるわけでなくて、バランスがとれていてそこそこうまくいっている状態をそう
呼んでいるのじゃないの、とおもえるんだけど。。今朝の新聞で疲労外来というのができ
たと書いてあったけれど、(中身は読んでいない。見出しをチラとみただけ)過労の人は
もちろんのなのだが、そうでなくても疲労を感じている人が多いのじゃないだろうか。
現代は。そうでなくてもカラダの中の風通しが悪くてくすぶっているような感じがしたり、
花粉症でむずむずしたりと、いろいろ大変そうで気の毒な人が多い。

坊さんだって、現代社会に生きているので実は案外、朝早くからジタバタ地面を這いつく
ばって時間と戦っていたりするので、それなりに時間に追われたり、ストレスを感じるこ
とがあるけれど、溜め込まずにうまくリリースしているように感じている。それは立って
バスを待っているときや、お経を読んでいるときだったりするけれど、最近では歩くこと
でカラダのバランスがかなりとれるのがわかってきた。しかも足運びも歩き姿もたぶん美
しく見えるんじゃないかと、期待しているんだが。

お金もかからないし、それほど長い距離を歩くわけでもない。どうしているか、というと
自分の体の中で意識の流れを作っているだけのことで、歩くのに足を前に出すとき、意識
の流れを足の親指から踵へ、踵から腰へ。と意識してゆくだけのこと。もちろん次の足を
前に出すときは同じ様に意識する。立っているところから正座するのに坐るのもそう。親
指からカカト、脚、腰とチカラの流れを意識してゆくだけでどれだけ所作がスムーズにな
るか。現代人のウオーキングでは腿の筋肉の力を使って、とか足首のチカラを使って、蹴
るという意識が強い。チカラづくというか、パワフルな印象を受けるんだけど、足指から
踵へという意識の流れだとやはり繊細な印象が強い。

寺に住まわせてもらってよかったことの一つは靴を履かなくていい、ということだけで、
足がムレたりしないし、下駄や草履の生活はなんとなく日本の生活に合っているのだと思う。そして靴のように足が全部硬い皮で囲まれているわけではないから、あちこちにぶち
当てないように足指に気をつけていないといけない。つまり、前に歩いていくときは、足
の前つまり親指あたりに意識を向けていないとブチ当てて怪我をしてしまう。どうせ靴で
守られているから平気なもんだ、ドタドタ歩くのと、やわらかい草履で足裏の感覚を使っ
て地面の状態や周りの状況を感じながら歩くのと、歩き姿はどちらがカッコイイだろうか。