禅寺小僧

日々の記です。

家庭菜園

新茶

たいしたものを作っているわけじゃないし、
この便利な世の中では自分で畑をした方が無駄のように
も思えてくるけれど、なんとなく農耕民族の習性がどこかに
残っているようで畑にゃなんか植えとく方が気が落ち着く。
何も植えていないと体のどこかで貧乏性が頭をもたげてきて、もったいないというよりも
罪悪感に似たものを感じてしまう。損な性分だ。どちらが損か、というと実は狭い土地で
あれこれしている方が経済的には損をしているに違いないのだが、収穫物を手にしたとき
にはやっぱり嬉しい。これで少し生きながらえることができそうに思える。お金だと財布
に入っていても社会的な安心感はあるけれど、食べ物だと生物的な安心感、この食べ物さ
えあったら、世間に迎合して何をするわけでもなく、生命を維持できそうだ。と感じる、
ということはないかい?

で、今日は河の横のムダ無駄菜園に偵察に行ってきた。葱は花が咲いてしまってもう食べ
れなくなったいた。かわいい晩生の玉葱ちゃんはたぶん今のとこ順調にいってる。ジャガ
イモは芽がでていた。本当はもっと沢山植えたかったのだけど、これだけでも結構食べれ
る筈。遅霜も大丈夫だったみたいでうれしかった。どうなるかなあ、とおもっていても、
たとえゆっくりでもだんだん成長していくのを見守るのは精神の健康にいいな。

お茶の新芽も摘んで帰った。手を入れてないから、茶園は荒れていて寂しい。近所の茶園
はすばらしいところが多いけど。来年はもうちょとマシになるのだろうか。座禅会で飲む
お茶ぐらい持ってかえれたら、、と欲をかいてしまうけれど時間ももったいないのでヤメ
た。そのかわり、今年はあまり取れていない、と聞いていたけど、何年かぶりにワラビを
ポキポキとりにいった。なんとなく懐かしいね。