禅寺小僧

日々の記です。

京都 ナ花

gi-man 『TOKYOに棲んでかれこれ10年になりますが,
身の回りで部屋に帰ると、
まずはTVのスイッチを入れるという人は多い。
別に見たい番組があるわけではなく、
音がないのがいやだと言うんである。
野山や寺院の静かさと対比するなら、
その気持ちこそが世俗の慌ただしさを現しているんかな
という気もします。』
    
gi-man氏のご発言には、いつも、ハッとさせられるものがあるけれど、これもまったく、
そのとおりだな、と思う。慌しいのはイヤだ、とつぶやきながら、手はTVのスイッチを
捻っている。ヘトヘトに疲れていて、実のない番組で睡眠不足の元であるとわかってい
ても、なんとなく、求めてしまう。これはなんなんやろう。自由時間であるはずなのに
自分から首輪に繋がれに行くようなもののようにも感じる。空白が怖いんだ。
庭にししおどしがあって、水がたまって、カコーンと音をたてる。その音のあとに漂う
静けさを旧古は楽しんだのだが、忙しい現代にはそこに音楽やTVを氾濫させる。
そうしないと落ち着かない。いや落ち着けない。人間は巨大な感覚器官の統合体だから
いつもまわりからの刺激を受け続けているけれど、刺激を受けていない状態になると
どんなだろう。
   
明日も座禅会だけど、坐禅坐禅という刺激を受けにお寺にくるのではないので、
普段の刺激から離れる為に坐禅するということがあるとおもう。現代人は忙しいのが
好きで、とくに仕事のできる人は常に何かやっている。坐禅しにやって来られる。
でも坐禅したって、本を読むのでもないし、考え事をするのでもないし、新しく何かを
得る、というこはないだろう。どちらかというと普段、TVの刺激を受け続けているのを
中断してみる。その時自分がどうなるのかというのを体感してみる、ぐらいのこと。
そのとき感じるのは新しくどこかから得たものではなくて、普段はあまり目につか
なかったものに気がつくということだ。そのことが本人にとって値打ちがあるか、どうか。
お寺が流行らんというのはそんなものに値打ちを感じる人がいないからだろうけれど、
賑やかにすればいいというものでもないだろうしなあ。
   
せ。