禅寺小僧

日々の記です。

和について

大杉

和というと、ふつう和風、日本風のことを指していて、
深いところでは繋がっているのだろうけど今日は、
和やかことについて少々。

最近は慣れない?事務仕事とでっかい火鉢の番人をして
昼間を過ごしていて、お客さんがあったらお茶を点てるのが
俺の役目になっている。会社だったらOLがしたはるけど
お寺なんで男でやってるわけよ。

お客さんにお茶を点てて出すと、

「ウマイ!こんなおいしいお茶は初めてです。
やっぱり茶道なんかもしたはるのですか?」

というような会話になるわけだが
当然のことながらそんな事は一度もしたことがない。
エライ和尚さんによると、坊主たるもの書道、茶、花なんぞはひと
とおり
人が感心するぐらいにできて当たり前なんだそうだが
どれもこれも出来ないクセに自分のリズムでなんとか
その中に楽しみをさがしながらやっている、というのが現状だ。

お茶だって、別に嫌いだから習ってないわけでなくて、
お茶人さんのしぐさも奇麗だな、と思うけど、どうも
これは自分のものになりそうもないでので放ったらかしだ。
けど、ヒマになったら、茶室を一つ作ってみようとも考えている。

寺の中では茶礼というお茶を飲む儀式がある。
これは全員が本堂の両側に並んで一緒にお茶を飲むのだけれど、
特に年に2回ある修行の(修業ではない。技術を習得してるわけで
ないから。)
始まりでこれからこのメンバーで半年やっていくというときには、
全員が低頭して、上役の人が亀鑑という全員が守るべき心得を
拝読する。
その一番先頭にくるのが、一つ、和合専一のこと。
という文句だ。
次が、一つ、火の用心第一のこと。
なんだけど火の用心よりも和合を一番にもってきたのは、
エライな、と思う。
寺の修行生活は冬でも素足で寒いとか、朝が早いとか、
したい事ができないとか、一般の人がみてもそれなりに大変だろう
ことは
わかるだろうけれど、現代人にとって一番大変なのは
たぶんプライバシーが全くないことだと思う。
坐って半畳、寝て一畳とかいうけれど、その横の一畳には別の人が
寝ているのだし、それが毎日24時間、×365日つづくのだから
出家したとしても、ある意味、娑婆より厳しい面がある。
一人で修行できるわけでもないしね。
一緒に修行する仲間同士で仲が悪かったら
これほどツライ修行もない。
寒さなんかはスグに慣れてしまうものだけど、
人間関係はなかなか複雑だからねえ。

そこで和合専一という言葉がでてくるのだけど
和合という言葉には、積極的に親しくしよう、
親交を深めよう、助けましょうというよりも、
お互いの邪魔にならないように、少し席を譲りましょうと
いうような響きがあって、なんだか日本的じゃないか。
消極的であるようでその実、お互いの価値観を認めているような
気がしないか。
人それぞれ自分の修行が大事なのだけど
自分のことが他人の邪魔にならないように
お互いに気をつけましょうね、といって一緒にお茶を飲む。
みんながそれぞれ自分の持てるものを発揮している、
なんて素適じゃないか。
みんなそれぞれ自分の世界があるのだから。
邪魔にならないように。

まあ、そこんとこをカッコよくいうと和敬静寂なんて掛軸になって
茶室で一緒にお茶を頂くなんてことになるのだろうけど
俺には似合わない。どうもアカン。




せ。