禅寺小僧

日々の記です。

クレソンをたずねて









山を歩きたくなって、春だしクレソンでも探しに行こうって思った。
水路ぞいの採りやすいところにチラホラ、川を降りると水際にポツポツは
えていて、口に含むと、ワサビのような峻烈な辛みがあった。酒糟につけ
込んだらワサビ漬けみたいなのができるのかしれない。こんど作ってみた
い。でも大群落みたいなのはなかった。きれいな水が流れてて、日当たり
のいい、広い河原のようなところがあればいいのだけれど。












大文字山の火床を望める峠を越えて、林道にそれて進んでゆくと、ガサガ
サッ!と道が揺れた。何かありそうな気が、今日はしていたんだ。はたし
て、一頭の巨大な雄鹿が掛かっていた。五つに枝分かれした立派な角を頭
に立てている。こんないい角をしている奴は珍しい。鹿は雄だけに角があ
って雌にはないけれど、雄より雌のほうが数が多いように思う。しかも雄
でも若いのは一本角で、歳を経るにしたがって、二本角、三本角というよ
うにだんだん大きな角になってゆく。五つに分かれた角は日本の鹿の中で
は一番大きくて、これ以上にはならない。巨大な五つ角をりかざしている
彼はこのあたりの山の主なのだと思う。今まで群を率いてきたリーダーだ
ったのか、それとも孤高を守ってきた王であったののか。今は捕らわれの
身になって自由を失っている。












最初はほんの小さなミスだったのに違いない。余裕で飛び越えられる柵、
いつもは防護ネットから少しはなれて歩くのに、昨夜にかぎって近くを歩
いた。立派な角の端っこにネットが少し引っかかってしまう。そのときど
ちらの方向に首を振るか、どっちに歩くか。たったそれだけのことに違い
ない。たまたま、ほんの端っこにひっかかったネットが、次の段階で外れ
る方向ではなく、さらにからみつく方向へ転がりだしてしまう。冷静さを
失ったかれはさらに事態を悪化させてしまう。強引に破ろうと、暴れて闇
雲に走り回って引きちぎろうとするけれど、逆に自慢の角をネットでグル
グル巻きにしてしまう。角のない雌鹿だったらこんなことにならなかった
。貧弱な角しかもっていない若い雄でもそうだった。何とも説明のしょう
ない何かが仇になって、こんなことになってしまう。











彼に近づいてゆくと、山側から谷側に向けてものすごい力で突進する。下
にいたら鹿に殺される。野生は人間にはない爆発的に一気に出せる力で突
破しようとする。逃走しようと必死に、何度も何度も、谷に向かって飛び
込むが、そのたびにネットが捩れて今はロープみたいになっている綱に引
き戻される。ネットをささえる金属の支柱は根本からポッキリ、折られて
いた。直径1センチ程のネットを張るナイロンのロープも切られていた。
だけど数ミリのネットが絡まって一本の綱のようになったのが絡まってい
る。ネットの格子と結び目が弾力をもって、爆発的に大きな力を出しても
吸収されてしまい、破壊できないのだ。彼は化学繊維に負けていた。











春になったら、雄鹿の角はポロッと落ちる。子供の頃、山道で友達が鹿の
角を拾ったことがあって、見せてもらいに行ったことがあった。あのころ
は今ほど鹿が多くなく、珍しい、美しい動物だった。山で目撃しても、ホ
ンの一瞬か二瞬、あとは藪であろうが崖であろうが、ピョーンとしなやか
に弾け飛んでいって、眼の裏には残像が残るだけだった。近頃みたいに車
で夜道を走ると、横で悠々と草をはんでいる、ということはなかったな。











うまくすれば、春なんだから角が根本から外れるかもしれないとおもい、
束になったネットを引っ張ってやる。お前さんを助けてやろうと思ってる
んだよ、殺しにきたんではないから。声に出して言うのだけども彼は殺さ
れまいとして必死に抵抗する。もちろん鹿と綱引きをするのは初めてで、
軍手して、あっちとこっちでひっぱりあいをする。四本足対二本足、鹿が
下で人間が上。鹿が有利なんだけどけっこういい勝負で、二本足のほうが
力が強かった。彼は疲れてしまったけれど、ネットは外れなかった。角も
落ちなかった。春といってもまだ三月、これが五月だったら角が落ちて、
彼は跳んで逃げただろうに。












父親がここにいたら、と思う。父は本当の山奥に育った。とっくに棒で脳
天を粉砕して殺しているだろう。脳天を一撃すると、瞬間硬直したあと、
身体が特に頭がプルプル震えだし、地面に細い糸をひいて口から血が垂れ
落ちてゆく。ブルブル震えながらだんだん顔が地面にさがっていってやが
て動かなくなってしまうのだ。今の自分に彼を殺す勇気はない。殺す資格
もなかった。動物を殺して食べてもいいのは、自分の手で殺して何の罪悪
感もない人だけだ。当然のように殺せる人にだけ許される。山の動物は怖
ろしい、甘いものではない。スーパーでレジに並んでパック詰めの肉を
500円で買うのとわけが違うのだ。殺せば何十キロかの肉が手に入る。
でもこんな春に食べたいともおもわない。冬だったら別だったかもしれな
い。狼が獲物を捕るようにできないことを、父がするようにできないこと
を、正当化しようとしているだけなのか。殺すとなればそのへんの間伐材
を拾ってくればいい。ネットに捕まっているとはいっても動けないわけで
はない。彼とは一対一の対決になる。彼よりも山側に立って、勇気を出し
て、大声を張り上げ、己の中の野生を奮い立たせ、一撃必殺、大きい棒を
地面に振り下ろす。今朝は山菜を食べたかったのだ。














ここは林道で登山者はまず歩いてこない。
途中の道は倒木がふさいでいて、軽トラもしばらく入れない。
今朝、雨が振っている。
誰にも知られることもなく、あの道にすわっている。
飲まず食わずでいる彼にこの雨は、救いになるのか、
それとも試練なのだろうか。
野生の力に出会うと人間は元気になれる。
負けてほしくない。
こんどあの場所を通りがかったら、もぬけの空で、
奮闘のあとだけ残っていればいい。
雨でナイロンの滑りがよくなって、角が抜けることを願っている。











↓その後
http://d.hatena.ne.jp/hekigyokuan/20120331
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