禅寺小僧

日々の記です。

文字のない世界









ムシムシの雨やね。
忘れられた日本人を読みたいのだけど、部屋のどこにあるのか、
見当たらない。
よく考えると、学生に貸したまま、彼はどっかに引っ越したんだった。
で、新しいのを一冊買うてきた。










文字に縁のうすい人たちは、自分をまもり、
自分のしなければならない事は誠実にはたし、
また隣人を愛し、どこかに底ぬけの明るいところを持っており、
また共通して時間の観念に乏しかった。


とにかく話をしても、一緒に何かをしていても区切りのつくと
いう事がすくなかった。
「今何時だ」などと聞く事は絶対になかった。


女の方から
「飯だ」 といえば
「そうか」 と言って食い、
日が暮れれば
「暗うなった」
という程度である。
ただ朝だけは滅法に早い。











ところが文字を知っている者はよく時計を見る。
「今何時か」 ときく。
昼になれば台所へも声をかけて見る。
すでに二十四時間を意識し、
それにのって生活をし、どこかに時間にしばられた生活が
はじまっている。


つぎに文字を解する者はいつも広い世間と自分の村を対比して
物を見ようとしている。













と、宮本先生はおっしゃる。
なんか文字に縁のうすいのも気持ちいいような気がするなあ。
不立文字、人生文字を識る憂患の始まり、なんてのも、
それぞれにキチンとした意味はあるのだろうけど文字が人から
何か大切な生き生きしたものを奪ってきたのじゃないだろうか?


そういえば道場では活字は禁止だわな。
新聞、雑誌、本、テレビ、パソコン、etc、、。
内面の修行をしているのだから、外からの情報は入れないのだ。
という説明だったように覚えているのけれど、あんがい仏教は
文字に縁のうすい人のほうへ、区切りのない広い世界へ、
向かおうとしていたのか。


さっき塔婆を二本書いて、墨があったんで色紙を書こうと思ったけど
結局モノにならなかった。
二つ折にして、風呂で燃やしてやった。