禅寺小僧

日々の記です。

われらに、光を、




 年頭雑感。芽出度く、あるいは仕方なく、押し出されるようにしてだか、新年を迎えるわけですけれど、この歳まで走り続けてきて、ハタと気がついたのは、最近、それぞれが自分の仕事の以外で勉強することが少なくなったのでは?ということだった。もちろん、中には資格を取るために、仕事や専門以外の勉強をしている人もいるのだけど、自分自身は、仕事や専門外のことは何一つ求めていないのだった。年明けの、凍りついた道を眺めて、ふとそんな思いにかられる。本業はその業界の人だったら誰でもあたりまえにやってることで、それだけでなくて、われわれとしてはなんか他と違ったもの、サムシングが欲しい。本業だけでは大道を歩けないとしても、狭ーいところで他の人のやっていないところが残ってないものがあるはず。特に仏教を求めてこうしているわけでなく、たまたま京都に長くいることになってしまって、寺に縁があり、たまたまそこは禅宗だったということなのだから、大学も仏教とは何の関係もないから学問がどうなってるかはわからん。けれど宗派という組織の片隅の一員で、エリートではないから”仏教そのもの”純禅”を説いて広める資格も力もない。それは他の人がやるし、今さら組織の中で出世を目指そうというのでもない。けれど、本道ばかりが道でもないので、わき道だってある。自分にしかないものを生かして、ナニナニと禅、ナントカと仏教というやり方ならば、分け入るスキマ程に道がある筈。本道の大道は研究所の研究者や老師方、臨済宗黄檗宗公式サイトに任せておいて、凡僧はスキマ商法に生きるのだ。そのためには常に本業以外に求めるものが無いといけない。一生かけて勉強していることでも取り組んでいることでも、新しいことでもかまわない。毎日が本業の中にだけ埋没して、決められた仕事だけを繰り返してる、というのも淋しいから、撃ってでないと。新しいものに。もしくは途中で忘れてしまった世界を。
        
 今年も新春ドライブは盛大に敢行され、楽しいものでありましたが、その後さらに夜、鞍馬から百井を抜けて小出石、大原へと誰も通らない狭くて深い道に分け入ったところ、5本に枝分かれした立派な角をもった雄鹿に出遭った。邪魔な奴がきやがったぐらいに思われていたのだろうけど、急ぎもせず悠々とした足取りで雪深い谷へと降りていった。sadam氏は、
      


「おお、野生の王国やね。」

           

と言うとった。
        

今年はいい年になるんじゃないの?