禅寺小僧

日々の記です。

来週は座禅会やすみます。

hekigyokuan2005-11-29

 元気です。 
                   、
 もう年の瀬も近くなってきたようですが、皆さんいかがお過ごしですか。
来週は朝から電車にのって一日よそのお寺に行くつもりですので、座禅会はお休みにします。マ、ほんとは12月といえば一番の修行のシーズンなのでしょうけれど。私も修行にいそしみたい気持ちはあるのですけど、暇そうにみえていろいろと用事があるのですよ。門前のコーヒー豆屋の親爺が、忙しいでしょう。なんて言うから、毎日日曜みたいなモンですヨ。と答えたら、他のお客さんに訝しそうな顔で見られた。仕方ないから、日曜でありつつ、月曜でもあるような毎日ダワ。と言っておいたけど、、。あの店は人はどう思ったことやら。
 毎日がそんなテイタラクであるし、寺というと無駄に面積を消費していてケシカランというような声が聞こえてくるようだけど、たまに寺に来てくれた人なんかは、落ち着く、と言ってもらえることがある。仏教の寺だから、といって大層な布教をせんでも別にええのじゃないの、と個人的には思っているけどな。仏教ではこうなっています。と言葉で説明せんでも、たまたま来てくれた人と少しの時間をすごして、落ち着きました、と言ってもらえたらそれでいいじゃないの。
 来る日も、来る日も、毎日流されまくって、追いかけられつづける存在であってみれば、会社員であったり、父親であったり、役目や地位や名誉や権力から離れたくて、時々、無性に、ただの男に戻りたくなって、あなたもいろいろ無茶をしているようにも見えるのですけど、なんだかうまく説明できないのですけど、ただの男をとおりこして、ただの人間、もっといったら、ただの生物に戻れる瞬間が、宗教なのかな、と自分の中では思えます。社会生活のなかでも、人間らしくあるために、そんな時間が必要なのだ、とそのうち認識されるのではないでしょうか。タマにはカラッポの腑抜けになるのも。
 

 元気です。 

 もう年の瀬も近くなってきたようですが、皆さんいかがお過ごしですか。
来週は朝から電車にのって一日よそのお寺に行くつもりですので、座禅会はお休みにします。マ、ほんとは12月といえば一番の修行のシーズンなのでしょうけれど。私も修行にいそしみたい気持ちはあるのですけど、暇そうにみえていろいろと用事があるのですよ。門前のコーヒー豆屋の親爺が、忙しいでしょう。なんて言うから、毎日日曜みたいなモンですヨ。と答えたら、他のお客さんに訝しそうな顔で見られた。仕方ないから、日曜でありつつ、月曜でもあるような毎日ダワ。と言っておいたけど、、。あの店は人はどう思ったことやら。
 毎日がそんなテイタラクであるし、寺というと無駄に面積を消費していてケシカランというような声が聞こえてくるようだけど、たまに寺に来てくれた人なんかは、落ち着く、と言ってもらえることがある。仏教の寺だから、といって大層な布教をせんでも別にええのじゃないの、と個人的には思っているけどな。仏教ではこうなっています。と言葉で説明せんでも、たまたま来てくれた人と少しの時間をすごして、落ち着きました、と言ってもらえたらそれでいいじゃないの。
 来る日も、来る日も、毎日流されまくって、追いかけられつづける存在であってみれば、会社員であったり、父親であったり、役目や地位や名誉や権力から離れたくて、時々、無性に、ただの男に戻りたくなって、あなたもいろいろ無茶をしているようにも見えるのですけど、なんだかうまく説明できないのですけど、ただの男をとおりこして、ただの人間、もっといったら、ただの生物に戻れる瞬間が、宗教なのかな、と自分の中では思えます。社会生活のなかでも、人間らしくあるために、そんな時間が必要なのだ、とそのうち認識されるのではないでしょうか。タマにはカラッポの腑抜けになるのも。
 

 元気です。 

 もう年の瀬も近くなってきたようですが、皆さんいかがお過ごしですか。
来週は朝から電車にのって一日よそのお寺に行くつもりですので、座禅会はお休みにします。マ、ほんとは12月といえば一番の修行のシーズンなのでしょうけれど。私も修行にいそしみたい気持ちはあるのですけど、暇そうにみえていろいろと用事があるのですよ。門前のコーヒー豆屋の親爺が、忙しいでしょう。なんて言うから、毎日日曜みたいなモンですヨ。と答えたら、他のお客さんに訝しそうな顔で見られた。仕方ないから、日曜でありつつ、月曜でもあるような毎日ダワ。と言っておいたけど、、。あの店は人はどう思ったことやら。
 毎日がそんなテイタラクであるし、寺というと無駄に面積を消費していてケシカランというような声が聞こえてくるようだけど、たまに寺に来てくれた人なんかは、落ち着く、と言ってもらえることがある。仏教の寺だから、といって大層な布教をせんでも別にええのじゃないの、と個人的には思っているけどな。仏教ではこうなっています。と言葉で説明せんでも、たまたま来てくれた人と少しの時間をすごして、落ち着きました、と言ってもらえたらそれでいいじゃないの。
 来る日も、来る日も、毎日流されまくって、追いかけられつづける存在であってみれば、会社員であったり、父親であったり、役目や地位や名誉や権力から離れたくて、時々、無性に、ただの男に戻りたくなって、あなたもいろいろ無茶をしているようにも見えるのですけど、なんだかうまく説明できないのですけど、ただの男をとおりこして、ただの人間、もっといったら、ただの生物に戻れる瞬間が、宗教なのかな、と自分の中では思えます。社会生活のなかでも、人間らしくあるために、そんな時間が必要なのだ、とそのうち認識されるのではないでしょうか。タマにはカラッポの腑抜けになるのも。