禅寺小僧

日々の記です。

もうすぐ、秋だねえ、。

朝から晩までいろいろあって、どうしてもせなアカンことからやっていくから、大事なんだけど後回しになりがちなことがいろいろ、ある。クリの樹は二本あるのだけど早いほうのがもう落ちて来た。ということは、、秋の種蒔き!せなあかん。台風がいったら早速播き始めないとな。とにかく播いとかんことには何もはじまらんしね。





自分という思い込みを破壊しつづけ、向上をめざすのが禅仏教の修行であり、生きざまなのだろうか、と思うことがしばしばあるけれど、自己破壊にもいろいろあって、精神的、思考的なものを壊すのではなくて、皮膚、肉、血管など細胞そのものの破壊もあって、現代のリストカットも「気がついたら切っていた。」とか「スッとした。」と語る人がいて、つい、聞き入ってしまう。手首を切る。ただそれだけのことの中にも無意識の世界の広大さを見る思いがする。理性的な行動ではなくて無意識に切りつけているのにもかかわらず、大抵は手首の内側を切る。外側を切るのは稀なんではないか。胸やお腹はあっても背中はない。脚だって内側は切っても外側はしない。どういうわけか切られるのはいつも内側なのだ。確かに内側は人から見られて目立ちにくいということは考えられるけど、なにせ無意識に切っているのだからそんな判断もできない状況であるはず。手のひらが白っぽくて手の甲は黒っぽく日焼けするが、その感じは手首のほうにまで連なってゆく。さらに皮膚感覚の鋭敏な人なら手首のあたりでも黒っぽいほうと白っぽいほう、外側と内側と言い換えてもいいだろうけれどカンジがちょっと違うのがわかるだろうか。内側のほうが湿っぽくてデリケートにできているように感じるのじゃないだろうか。東洋医学ではこちらを陰系とよぶのだけど無意識のカッターナイフは陰系ばかりを狙う。精神的な苦痛や葛藤に耐えきれなくなった神経が仕方なく身体を傷つけ肉体的な痛みを受けることで精神的な痛みから、なんの薬品も使うことなく巧妙に逃れているのだと思うが、それは内側に限るのである。もちろんストレスの原因をなくすのが一番なのだとは思うのだど、精神的ストレスの解消にはけっこう身体の内側と密接な関係があるんじゃないか、と考えるのはおかしいだろうか。