禅寺小僧

日々の記です。

国づくり

hekigyokuan2005-08-20

どこから生まれてきたか、なんのために生まれてきたのか、わからない。はっきりしない時代や社会であると感じだしてどれくらいになるだろうか。考えだすとアタマがこんがらがってくるので、なるべくそんなものは見ないようにしながらもっぱら眼の前の仕事やなんかに没頭することにしているし、毎日毎日をなんとかやりくりするのに精一杯だから意味だとか向ってる方向なんかは知らないまま、とにかく、寿命をめざしてあたふたと死に向かってどうやら生きているかのようにも見える。

 


世界は、宇宙はどうして始まったか、この世といってもいいんだろうけど。人間はどうやって発生したか、どこへ向えばいいのか、をどう理解するか。現代人は科学的な理解と範囲で生きているのだけど、それ以前は民族共通の神話であったり、神の言葉を聞くことができる男が話した言葉であったりして、そんなところから宗教が始まっている。そこから教会であったり、寺院であったりが建てられていくわけで、神職や僧侶なんて人もでてくる。そこで共有できる神話がうまれると今度はそれを維持して伝えていく力が働いて、集団となり、宗派となってゆく。芸事でもなんでも流派となると不思議と他流との違いを明確にしてゆくものだけど、宗教でもやっぱりそうで、同じ仏教内の宗派でもホンの数百年でどうしてこんなに違ってくるのだろうと思ってしまう。それでだんだん寺院も僧侶も宗派を維持するために活動してゆく。そうでなかったら今にいたるまで伝わってこれないし、もちろん意味のあることなんだが、この人の音楽は非常に宗教的であると感じるのだけど、ミュージシャン氏と旅行して思ったことは、僧侶なり神職なりが後生大事に持っている教義、教え、思想なんてものは宗派なんではないか、ということだった。勉強するのは結構だが、それはやっぱり借り物の他人の言葉で、勉強すればするほどますます自分が宗派に縛られる、ということもあるんじゃないか。そこで問題なのはそこにあるのは宗派であって、宗教ではない、ということだ。つまり、宗教的なミュージシャンに対して宗派的な僧侶、という構図になってくる。ミュージシャンの宗教性には普遍性があって東洋でも西洋でも受け入れられるが、宗派となるとそうではない。むしろ戦争のタネになっているのはみなさんの知るところ。神や仏はどこにあるか。教会や寺院、神職や僧侶、ましてや宗派の中にあるんではない。それは例えば自分の音を求めて生きる男の行為と深い心の中に潜在するものだし、お地蔵さんに手をあわしているときのあなたの心のなかにあるものだし、世界中の人々の心の中にあるものだろう。そこに到ればアラーとかゴッドとか、どの神も名前が違うだけで同一人物であったということになるんだが。いろんな宗教のいろんな神さんが本当にそれぞれに世界を作っていたら、この世にいくつもの世界がなければおかしいはずだけど、地球も宇宙もひとつっきりしかないからね。つまり神さんは最初から一人だった、というわけ。






せ。