禅寺小僧

日々の記です。

山の桜


春も遅くになってから開く八重桜は、いまさら、と思わすような遅咲きで、
ボテボテ野暮ったく、なんとなく好きにはなれないでいた。
周山を回りで入った村の見覚えのある橋の手前にその樹はあった。
知り合いの家が2,3軒あって、何度かきたことがある。
けれどいい桜の樹があることは知らずに、通り過ぎるばかりだったのを
先輩の好意で樹の下に立たせてもらう。
樹の下の縁台には田舎の爺さんがすわっていて、煙草を吸っている。
「写真撮ってるンやったら邪魔か?」
「大丈夫やで。」
それからもずっと、爺さんは樹のしたで煙草を吸っている。
広場には焼き鳥とラーメンの屋台を村の人で出していて、
繁盛している。
「今日は人が多いなあ。」と爺さんは言うが、
来ているのはみんな近所村の人で、夕暮れの群青色の空の下
篝火を焚いて、百年桜を見上げている。
夜桜は夕暮れから眺めるのがいい。
酔眼で夜中に通りがかるのも悪くはないけれど、
日が沈んでゆく頃から、浮かび上がってくるのを、
みんなで眺めるのがいい。案内ではこの桜は樹齢350年で、
そうすると江戸初期、寛永年間ぐらいから、街道ぞいのここにあったことになる。
昔、学生の頃、友人が奈良でだったと思うが、
塀の向こうに大樹がある写真を撮っていた。
彼は、「この樹は何百年もここにあって、
自分も知らない、その時間をずっと見続けててきた。
下を通るいろんな人を見続けてきた。」
そんなことを言った。
写真だけ見たときはそんなことは何も感じなかったけれど、
いつも思慮深い、知性を漂わし、議論好きな彼が、
時にはそんなことを言うのかと、妙に、こころに残った。
樹の下では、あいかわらず爺さんが煙草をやっているが、
アナウンスがあって、おばあちゃんの大正琴隊の大合奏があり、
こんどから新住民になるミュージシャン?氏の石笛??の独演があり、
本物の琴の演奏があって、酔わされる。
桜の樹の下には、人がいて、集まって、がやがや何かしてる。
見物人の一人として佇み、聞き入っていると、
「お兄さん、あの人にライトあててあげて。
私ら力ないからよう動かさん。」
とかいわれてちょっと手伝ったり、
「あの人なんて人やったけ?」
「????。」
演奏を聴いているうちに、ほのぼのと出合うものがあり、
肌で桜を、感じれるようになってきた。
縄文時代に天然に生えた杉に人が会いにゆくのもいいけれど、
江戸時代に人が植えた桜の下には、春になると人が集まって、しゃべって、
賑やかなほうがいい。いまはそう思う。
だいぶ夜も更けた、と思い車に戻るとまだ8時ころで
山の村は暮れるのが早かったのか。
帰り道、車を停めて、誰も訪れる人のない、闇の中の夜桜を訪ねて帰った。