禅寺小僧

日々の記です。

観音経

八重桜

朝、お経をあげる。蝋燭を灯して、線香を点けて、水を上げる。
毎日の習慣になっているけれど、あげているほうも気持ちがいい。
どこか外国に旅行に行ったりして、祈りの響きが聞こえてきたら
きっと、聞いているほうも気持ちよく旅情を感じるのだろうとおもうけれど、日本の場合
はどうだろうか。
法事のたび、あるいはお葬式のときに、お寺でお経をあげるけれど、たいていの人は黙っ
て聴いているだけで、お経の意味まで知っているわけではない。昔から日本人が唱えてき
たありがたいお経だという気持ちがあって、死者へのとむらいのためにお経をあげている。
はっきり言えば、何を言っているかワカラン。けれどお坊さんに唱えてもらっている人が
多いのじゃないだろうか。そして仏教の内容を知りたい人が多いから、いっとき仏教書ブ
ームなるものがおこったのだと思う。
キリスト教の教会にゆくと日本語に訳された聖書があって、神父さんなり牧師さんがその
一節をひいて、お話をなさる。おかげでキリスト教徒の方々は聖書の言葉をとおして、
自分が信仰しているキリスト教なるものがどんな教えであるか、どんなものの考えかた
なのか知ることができるけれど、仏教の場合はお釈迦さんに言葉が書いてあるにちがいな
いお経が漢文で書かれていて、あまり解説もなされないので、仏教徒であるにもかかわら
ず、仏教の内容はよくわからない、と友人諸氏はおっしゃるのだ。お経の本は持っていて
も意味がわからんから知りたい、と。
で、君のなかでのお経のイメージとは?と質問したら、エンギの悪い感じがつきまとう。
ということだった。ウーンと、これにはうなったね。心霊写真や幽霊がでてくるとき、ど
こからともなく、お経の声が聞こえてきた。とかありそうじゃないか。とおっしゃる。
キリスト教のゴスペルを聴いて、縁起が悪い。という人はいないのにな。ゴスペルは確か
ゴッドスペルの略で神の言葉、福音と訳されているのではなかったか。その人のなかでも
むしろ祝福のイメージなのに、である。
それなりに苦労して練習して、やっと覚えたお経をみんなの前であげていて、そう思われ
るのは、辛い。お釈迦さん以来、延々2500年も伝わってきた、お経が縁起の悪いひとこと
で片付けられては三蔵法師にも申し訳ない。ということで週に一度お経の解説をしようと
思います。以前坐禅会の参加者あてに般若心経の話はしたので今回は坐禅会でもあげる、
観音経を取り上げます。乞うご期待。
       
      
      

     
     
     
せ。